2008.11.16

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「神の愚者」

廣石 望

ヨブ記5,1-20;コリント2 11,16-29

I

 現代の私たちの社会では、それこそ〈恥も外聞もない〉仕方で、お金や権力が追求される傾向にあります。それでも権力を手に入れた人々は、最後には名誉と名声を手に入れたいと願うようです。〈お金がすべて〉の世の中にも、名誉欲は必ずついてまわります。

 名声と名誉は大人たちばかりか、子どもたちにも期待されます。世間で評判の「よい学校に入りなさい」。絶対に倒産しない「有名企業に就職しなさい」。周囲から羨望が集まるような「よい家柄のお相手と結婚しましょう」。「お願いだから出世してちょうだい」などなど。こうした〈常に上を目指せ〉という圧力に耐えかねて、最近の子どもたちの中には「下流志向」、つまり無理して勝負しないでほどほどで十分だという、逆向きの傾向もあるそうです。

 私たちはいったい何のため、誰のために生きるのでしょうか。私たちにとって名誉とは、プライドとは何でしょう?

II

 今日のテキストは、パウロの「愚者の語り」と呼ばれている箇所の冒頭です。彼はここで、とても複雑な語り方をしています。つまり最初に、自分を「愚か者」などと思ってくれるなと言った直後に、そう思ってくれてもかまわないと言葉をひるがえします。いっそ愚か者になって少しだけ自慢話をさせてほしいと言うのです。いったい、このややこしい話し方は何のためなのでしょうか?

 それは手紙の宛て先であるコリント教会の状況と関係があります。コリント教会はパウロが開拓伝道によって設立した教会です。しかし彼は書簡の執筆時に、すでにコリントにいませんでした。エーゲ海を挟んで反対側の小アジア、つまり現在のトルコ西海岸にある大都市エフェソスに彼は滞在中でした。その彼のもとに、パウロとは直接面識のないキリスト教宣教者たちがコリント教会に入ってきて活動し、信徒たちに好からぬ影響を与えているという報告が届いたようです。どうやらこの宣教者たちは、自らの名誉を求めることにあまりに急でした。彼らは推薦状つまり履歴書を持参して、自分を高く売り込んだようなのです(3,1その他)。こうしてコリント教会で、指導者たちをめぐって名誉の競争が生じました。

 教会の設立者であるパウロを中傷する噂も出回っていました。パウロ自身がそれをまた聞きし、「あなた方の間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出ると思われている、この私パウロ」(10,1)と皮肉たっぷりの自己紹介をしています。あるいは彼のことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」という人たちがいる、とパウロは言います(10,10)。さらに金銭問題で彼を中傷する噂も流れていました。「私が負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています」(12,16)。彼の時代、各個教会を巡回する使徒たちは教会から扶養されるのが通例でしたが、パウロは経済的に自立していました。その真の動機をめぐって、憶測に基づく悪意の噂が流されたのかもしれません。

 この圧倒的に不利な状況の下で、パウロは「愚者の語り」を始めます。あえて愚か者のふりをして威張ることで、自分だって負けていないことを示すためです。しかしそれはパウロの本来の意図ではありません。彼は自慢話を続けるふりをして、自分の伝道活動における苦難、弱さを次々に挙げてゆきます。この部分は、専門家の間で「苦難のカタログ」と呼ばれる様式に属します。その内容は、コリント教会にやってきた宣教者たちが持参した推薦状とは、ずいぶん違ったものであったはずです。パウロが列挙するのは、ふつうなら恥でこそあれ、決して誇ることのできない弱さと艱難だからです。

 こういう手の込んだ物言いをすることで、パウロは何をしているのでしょうか? 結論を先取りしつつ申しあげると、こうなのではないかと思います。すなわちパウロは、真の意味で「キリストに仕える者」(23節〉とは、弱い立場の人々のために働く者のことであると言いたいのです。愚者のふりをして読者の注意をひきつけ、自慢話をするふりをして、じっさいには弱者のための苦しみを引き受けるという、一見すると弱々しい生き方こそがキリストの奉仕者に真にふさわしい生であることを示す。これが、パウロがここで「愚者の語り」を行う、その目的です。

 以下、パウロの発言の流れを追いましょう。

III

パウロはまず、コリント教会の信徒たちを「賢い」と言っていったん持ち上げます。しかし直ちに続けて、彼らのじっさいのありさまを描く筆致は強烈な皮肉が利いています。すなわち「あなたがたは」、新参の宣教者たちから「奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても」、はたまた「顔を殴りつけられても、我慢している」(20節)――つまりパウロは、コリント教会の人々が自ら進んで自分の顔に泥を塗るようなまねをすることを、入り込んできた宣教者たちに許していると言うのです。他方で、「言うのも恥ずかしいことですが、私たちの態度は弱すぎた」という発言は、今度はパウロの方が軟弱であったために、コリント教会の信徒たちが侮辱されるのを防ぐことができなかったという意味です。

古代地中海世界の人々は、社会生活を営む上で〈名誉と恥〉をたいへん重んじたことが、最近の研究で注目されています。他人から公衆の面前で「愚か者」呼ばわりされることは、成人の自由人男性にとって、この上なく不名誉なことでした。そして権力は「名誉」と深く結びついていました。皇帝たちはあらゆる機会と制度を用いて、自分に向けて尊敬と名誉が集まるよう、いろいろな仕掛けを配置しました。皇帝崇拝はその最たるものです。

 当時、「誇る」ことは社会的な自己主張のあり方として、ごく普通でした。誇る相手は、基本的には自分が属する社会集団に帰属する他のメンバーです。たとえば守護者(パトロン)は、法律的な契約関係に支配されない人間同士の結びつきに基づいて、庇護民(クリエンテース)に保護と支援を約束しました。他方で庇護民には、守護者に対する絶対服従が要求され、そこには常に守護者に名誉を帰することが含まれました。

IV

あたかも自分の庇護民が守護者に名誉を帰すことを忘れたばかりか、部外者から不名誉な扱いを受けていることに傷ついた守護者が、庇護民たちに主人の名誉を思い起こさせるかのようなポーズで、パウロは自慢話を始めます。「彼らはヘブライ人なのか。私もそうです。イスラエル人なのか。私もそうです。アブラハムの子孫なのか。私もそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです」(11,22-23a)――この発言からは、パウロの後にコリント教会に入ってきた宣教者たちが、異邦人伝道を行うユダヤ人キリスト教徒であることが分かります。つまりパウロと同系列の人々です。

パウロはここで「愚か者」のふりをしつつ、神の約束の民イスラエル民族の生まれという自らの民族的出自を誇っています。私たちはどうでしょう? 私たちの社会でも、いまだに「名家の出身」という言い方はあるかもしれません。あるいは海外出張や留学にさいして、現地で人種差別あるいは民族差別らしきものに出会うとき、「私は日本人だ」といって何とか有利に切り抜けようとしないでしょうか。アジアの他の諸民族に対する根拠のない優越意識は、現代日本にも残っているように感じます。

他方で「キリストに仕える者」という表現は出自というより所属、より正確には使徒としての職務に関係します。つまり「彼らは・・・なのか。私もそうだ/彼ら以上にそうだ」という言語表現はなるほど反復されますが、内容は意図的にずらされています。そして「キリストの奉仕者」という使命について、パウロはただ彼の苦難のカタログのみを持ち出します。

V

苦難のカタログは、三つのユニットから成っています。それらはいわば様式化された表現であり、パウロの個別体験を加算的にリストアップするものではありません。むしろ三つの視点から、彼の伝道者としての生が全体として〈苦難の生〉であることを浮き彫りにしています。

 第一ユニット(23b-25節)は、パウロが伝道旅行をする中で、ギリシア系の諸都市の官憲に捕まって、あるいは都市のユダヤ教会堂の指導部の決定に基づいて加えられた、さまざまな処罰および旅の苦難に関係します。そこをかなり直訳的に訳すとこんな感じです。

さまざまな労苦の点で〔あのご立派な宣教者たちよりも〕はるかにおびただ しく
さまざまな投獄の点ではるかにおびただ しく
さまざまな殴打の点ではるかに度を超えて
さまざまな死の点でしばしば。
私はユダヤ人から5回、四十に一つ足りない鞭打ちを受けた。
3回、棒打ちを受けた。
1回、石打ちを受けた。
3回、難船した。
一昼夜を〔海の〕深みで過ごした。

 次のユニット(26節)は、伝道旅行における危険に関係します。

しばしばの旅によって〔私はキリストの奉仕者であることを示した〕。
盗賊のさまざまな危険によって
同族〔ユダヤ人〕のさまざまな危険によって
異教徒たちのさまざまな危険によって
都市におけるさまざまな危険によって
人住まぬ場所におけるさまざまな危険によって
海におけるさまざまな危険によって
偽兄弟たちの間でのさまざまな危険によって。

 第三の、最後のユニット(27節)は生命の危機に関係します。

労苦と困窮において〔私はキリストの奉仕者であることを示した〕。
〔つまり〕しばしばの夜明かしにおいて
飢えと乾きにおいて
しばしばの食事抜きにおいて
寒さと裸において。

 パウロはパレスティナ、シリア、ナバテア、小アジアの南部、中部そしてとりわけ西部、ギリシア北部と中部、さらにエーゲ海と東地中海の諸島部を旅しています。彼の伝道旅行は、いうまでもなく現代の観光旅行とは違います。私は昨年、トルコのエーゲ海沿岸および内陸近郊のパウロ関連の諸都市(エフェソス、スミルナ、ミレトス、コロサイなど)を訪ね、今月始めには彼の母教会があったダマスカス(シリア)、そして彼がヨーロッパ伝道の行きかえりに経由したアソスとトロアス(トルコ)を訪ねるチャンスがありました。エフェソスとダマスカスという二つの都市は、まるで雰囲気の違う二つの世界です。トルコのアナトリア高原は果てしなく広大です。そしてアソスのアクロポリスの断崖絶壁の先端に立つと、広大な空間の中で天と海が溶け合い、本当に自分がちっぽけな存在に感じられます。

 パウロは風土も文化も違う広大な地域を、徒歩や船で移動しました。雨が降ればずぶ濡れになったでしょう。野宿は当たり前だったに違いありません。食糧や水が尽きてしまうこともあったと思います。それに加えて虐待や裏切りの数々。

 自分の生まれ育った土地で一生を終えるのが普通であった世界で、彼はじっさい「愚か者」と映ったにちがいありません。何を好き好んでこんな苦労を、驚くべき持久力で、いったい何のために?

 その答えと思しき発言が、今日の箇所の最後に現れます。「誰かが弱っているなら、私は弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずくなら、私が心を燃やさないでいられるでしょうか」(29節)。――これが、パウロが何度も死にそうな目にあいながらも旅を続けた理由でした。「弱る」「つまずく」とは、教会内部の個別的な人間関係の悪化に限りません。まともに生きようとしても、病気や差別や抑圧のためにそれができないことが含まれるでしょう。キリストの奉仕者とは、そうした弱い立場におかれた人々との、具体的な連帯を目指して生きる者なのです。

 

Y

 このイメージを現代に実践していると思われる人たちに、先日出会う機会がありました。インド・タミールナード州から来たシスター・チャンドラさんが指導する「シャクティ」という少女たちの集団です。「シャクティ」とは〈力〉という意味です。チャンドラさんはディンディガル市というところで、カーストの外側にいるダリット(不可触民)の若い女性たちのために働くカトリックの修道女です。ダリットの女性たちはインド社会の最底辺にいます。女の子だからという理由だけで赤ん坊のときに殺されたり、レイプ被害にあったり、嫁ぎ先で虐待されたり、同じ肉体労働をしても男性の半分しか給料がもらえなかったりします。

 そんなダリットの若い女性たちが自尊感情を養い、差別を打ち破って地域社会のリーダーになってゆくようにという願いを込めて、シスター・チャンドラは村々に伝えられた歌と踊りを少女たちに教えました。パラヤッタムという踊りに使われるタップーと呼ばれる太鼓は、もともとダリットの男性のみが、上位カーストの葬式でだけ演奏することが許された、いわば「汚れた楽器」なのだそうです。それをダリットの少女たちが強烈なビートで叩きながら、力強く美しく踊ります。ここにあるのは、パウロがキリストの奉仕者として、常識的には不名誉でしかない弱さを誇るというのに通じる、「文化価値の逆転」という発想です。

 シスター・チャンドラとシャクティの踊り子たちは、バスで公演旅行を続けています。「村祭り、裸電球に集まる蚊やハエ、道を照らす太陽、そして雨」「伝道の旅」、バスの中で歌いながら旅する少女たち。シスター・チャンドラは言います。「フォークダンスは輪になって踊るでしょう。〈円〉には深い意味があるんです。こころを一つにする力を感じます。じっさいに踊ってみせることで、人々に私たち人間は一つになれる。こころを合わせるのが好きなんですと伝えているのです。私たちは一つです。ひとつの命から来ています。差別とか階級、貧富の差はあっても、じつは私たちは平等です。これは福音の教えです。私たちキリスト教徒は、この教えを人々に伝える義務があるんです。」

 ――パウロもシスターとシャクティの少女たちも、誇り高き「神の愚者」です。私たちも信仰にもとづいて、愛のゆえに少々「愚か」になってでも、この地に立てられた神の教会で、共に力を合わせて働きたいと願います。



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