2008.11.2

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「時にかなって美しい」

村上 伸

コヘレトの言葉 3,1-11;マタイ福音書 6,25-34

 『コヘレトの言葉』は独特な文書である。特に、一種の虚無感が漂っているところがユニークで、聖書にはこれに類するものは他にない。一体、誰がこういうものを書いたのだろうか? この書の冒頭に著者が紹介されている。「エルサレムの王、ダビデの子」(1章1節)。これはソロモン王のことだ。それに続けて「コヘレト」とあるが、これは木田献一氏によると「招集者」を意味するという。これもソロモンに当てはまる。エルサレム神殿が完成した時、ソロモンは「契約の箱」を至聖所に安置して祈りを捧げるために、「イスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに召集した(列王記上8章1節)とあるからだ。しかし、実際にこれらの知恵の言葉を語ったのはソロモンではない。紀元前2世紀後半の「ある知者」がソロモンの名を借りて書いたのだろうと考えられている。

 さて、この文書を読むと、先ず、「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(1章2節)という言葉に注目させられる。このような虚無主義(ニヒリズム)は、聖書の中ではコヘレトにしか見られない。

 「わたしコヘレトは…天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探求し、知恵を尽くして調べた。…わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」(1章12-14節)という言葉もある。あらゆることを研究し、学問の道を究めたが、それも「空しかった」というのである。ここでゲーテの『ファウスト』を思い起こす人もいるだろう。ファウスト博士もあらゆる学問を徹底的に研究し、遂には「あらずもがなの神学」まで修めたが、「その挙句、ここにこうしている。気の毒な、哀れな俺だな」と嘆いたのである。

 次にコヘレトは、この点もファウスト博士と似ているのだが、「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう」(2章1節)と考えた。こういう場合の定番は、「酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せる」(3節)ということだが、無論、それだけでは終わらない。大邸宅や素晴らしい庭園を構え、男女の奴隷や家畜を誰よりも多く所有し、金銀を蓄え、国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れ、男女の歌い手を揃え、大勢の美しい側女を置いた(300人!?)。こういうところもソロモンとそっくりだ。しかし、コヘレトは「見よ、それすらも空しかった」(2章1節)と告白する。

 他にも、彼が「空しさ」を感じたことは沢山ある。要するに、彼にとっては人生そのものが「空しい」と感じられたのである。だからコヘレトは言う。「まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた実に空しいことだ」(2章22-23節)。

 木田献一氏は、この虚無主義には仏教思想の影響があったのではないかと言う。確かに仏教と似たところがある。それに、シルクロードが日本ともつながっていたことを思えば、これはあり得ない話ではない。あの時代、交通手段は未発達だったが、文化の交流は驚くほど広範囲で行われていたからである。

 仏教哲学の佐々木閑教授(花園大学)は宮崎駿のアニメ映画が大好きで、繰返して見るという。アニメでは、一枚一枚別々に描いた絵を連続してスクリーンに映す。すると、「すべてはスクリーン上の一瞬一瞬の点滅の世界なのに、眺めている私たちは、それを『一つのものが連続して動いている』と感じるのである。実は、仏教が考える『時間の流れ』もこれと同じだ」と佐々木さんは言い、続けてこう説明する。「私たちの世界は、本当は一瞬ごとに生まれては消え、生まれては消えを繰り返している。その、刹那ごとの点滅の連続を『時の流れ』という」。しかし、その繰り返しの間に、私という存在は少しずつ変わっていく。この崩壊現象を仏教では「諸行無常」と呼ぶ。また「有為(うい)」とも言うらしい。そして、「仏教が目指すのは『有為の奥山』を越えたところにある、平安の境地なのである」。これはこれで優れた思想だ。

 だが、コヘレトの思想は、矢張りそれとは違う。仏教では、「私たちの世界は、一瞬ごとに生まれては消え、生まれては消えを繰り返している。その、刹那ごとの点滅の連続」を「時の流れ」という。ここには神はいない。

 コヘレトも今日の箇所(3章1-11節)で「時」について述べているが、それは「神によって定められた時」である。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(1節)。それは、神が決定する時(カイロス)である。

 このことを、コヘレトは人間の日常経験を例に取って述べた。「生まれる時、死ぬ時」(2節):これは自明だ。「植える時、植えたものを抜く時」:農作業のことだろう。「殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時」(3節):戦争の開始と終結、破壊と建設である。戦争は不可抗力ではなく人間が始める罪だが、「人間の力を超えたこと」と感じられることもあった。「泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時」(4節):喜怒哀楽である。「石を放つ時、石を集める時」(5節):意味不明だが、夫婦が抱擁するときの合図ともいう。「求める時、失う時、保つ時、放つ時」(6節):商売の駆け引きだろう。今日でも投資家は売買の潮時を狙っている。「裂く時、縫う時、黙する時、語る時」(7節):悲しい報せを受けたときの悲しみと沈黙、慰められた時の立ち直りを指すのではないかと言われる。「愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」(8節):これは説明の必要はないであろう。11節だけは口語訳で読みたい。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」。これは、鈴木正久牧師が死期を悟った時に引用した聖句である。

 コヘレトは人生の「空しさ」も身に沁みて味わったが、天地万物の創造主である神が備えて下さった美しさも感謝して楽しむことができた。このことを心に刻みたい。



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