2008.10.19

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「赦しと権利」

廣石 望

イザヤ書 52,7-15マタイ 18,21-35

 いま世界中で「サブプライムローン問題」のせいで株価が乱高下し、各国政府も対策に乗り出しています。この問題が正確には何のことなのか、素人の私にはよく分かりません。どうやら経営状態の思わしくない、つまり銀行が融資しても「貸し倒れ」になる危険性の高い、いろいろな会社の株式をひとまとめにした後で、これを小口に分割してリスクを減らすことで証券を販売する仕組みが、うまく機能しなくなったせいなのだそうです。つまりはじめは、私たちの多くが生命保険をかけても、そんなに一度にたくさんの人が死んだりしないので保険会社が潰れないのと同じなのでしょう。格付け会社の太鼓判もあって、証券の価格は維持されていました。しかしそもそも実態が伴わない価格で債券が売買されたために、やがて債務不履行が多発します。しかもそうした不良債券を、日本を含む世界中の金融機関がいろんなかたちで買っているのだそうです。

 庶民の生活からは遠い話のようですが、何れにせよお金というものは、私たちの社会生活に深く関わっていると同時に、つくづく扱いにくいものだと感じます。

 いったい「借金」という制度を、人類はいつごろ発明したのでしょうか? 人類が物々交換をしていたころから、おそらく「貸し借り」の観念はあったことでしょう。それでも人類が「お金」という抽象的な概念を使い、しかも利子つきの「借金」という社会関係を営むようになったのは、石器時代よりも進んだ時代、つまり人間が自然物に操作を加えて、穀物や家畜を「財産」として蓄えることができるようになった時代のような気がします。

 そのようにして生まれた植物の「種」とか家畜の「羊」などの準人工物は、人間社会の中でシンボリズムの担い手になります。聖書においても同様です。例えば「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書12,24)という言葉は、たんに植物の成長のことではありません。それは死と復活のシンボリズムです。あるいは〈失われた羊〉の譬え(マタイ18,10以下、ルカ15,4以下)を思い出して下さい。あの譬えはたんに動物の飼育ではなく、神とイスラエルの関係をあつかっています。

 すると「お金」という社会システムと神観念の間にも、何らかの関係が生じるはずです。これはたいへん大きな問いですので、ここでは深入りしません。次の聖句にだけ注目しておきたいと思います。それはマタイ福音書が伝える「主の祈り」の一節です。

私たちの負い目を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(マタイ福音書6,12

 ここで「負い目」「負い目のある人」と訳されているギリシア語(オフェイレーマ、オフェイレーテース)は、もともと「負債」「負債者」という意味です。今日のテキストと同様に、神が人の罪を赦すことが借金の帳消しと結びつけて理解されています。「お金」は、神と人の関係をも象徴する概念なのです。

 

II

 他方で私たちの社会には、〈借りたものは返せ〉という正義の原則があります。それは十戒の「盗んではならない」(出エジプト記20,15)と矛盾しないと感じます。サラ金や闇金の取立て屋は負債者に対して、おそらくまちがいなく「返すという約束で借りたのだから、約束どおり返せ」と言うでしょう。それが債権者の権利であり、社会正義であると。

 もちろんその場合に問題になっているのは負債の元金だけでなく、膨大に膨れ上がるしくみになっている「利子」です。高利貸しは昔からいました。それは借りたもの以上のものを返済させる仕組みです。旧約聖書は、民族同胞に利子つきで貸すことを禁じています。

同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。(申命記23,19-20

 この禁令は、実際にはどれほど厳守されたのでしょうか。イエスの譬えが物語るような借金地獄は、今も昔もあるような気がしてなりません。

 いったい負債の帳消しと罪の赦し、返済の正義と神の裁きは、互いにどのような関係にあるのでしょうか。イエスの譬えに耳を傾けましょう。

III

 この譬えには、いくつか特徴的な演出があります。

 一つ目は独特な配役の構成です。この譬えには三人の主要登場人物がいます。「王」とその「家来」(ギリシア語は「奴隷」)、そして彼の「仲間」(ギリシア語は「奴隷仲間」)です。この三人の間で、〈債権者―負債者〉の関係が反復されます。すなわち王は家来に対して「一万タラントン」の返済を、他方でこの家来は仲間の一人に対して「百デナリオン」の返済をそれぞれ要求します。その結果、最初の家来は負債者と債権者の役割を、順番に一人二役で演じることになります。この人物が物語のドラマ的な主人公です。

 二つ目の特徴は、この物語が二つのありえない現実を演出していることです。最初のそれは一万タラントンの借金という天文学的な数字です。日雇い労働者の一日の賃金が一デナリオンであるとして計算すると、一万タラントンは、一年365日働き、その賃金を全額返済に当てたとしても164,380年分ほどに相当します。つまり絶対に返せない借金なのです。この巨大な負債額を前にするとき、家来の財産の売却や親族の身売りによって借金を「返せ」という王の要求も、また「どうか待って下さい。きっと全部お返しします」(26節)という家来の嘆願も、およそグロテスクです。返せるわけがないからです。天文学的な負債額を前にするとき、〈借りたものは返せ〉という正義は、ほとんどありえない正義という様相を帯びます。

 二つ目のありえない現実は、この家来が、その一万タラントンという膨大な負債を「憐れに思った」というだけの理由で王から全額帳消しにしてもらったすぐ後で、仲間の家来に対してなした行為です。すなわち彼は、自分は一万タラントンを赦してもらっておきながら、仲間からは百デナリオン、つまり約三ヵ月分の賃金に相当する借金の返済を要求し、「どうか待ってくれ。返すから」(29節)という嘆願にも耳を傾けず、「その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」(30節)というのです。どうしてそんな酷いことができるんだ!――イエスの譬えの聴衆たちは、そう叫んだのではないでしょうか。自分たちが日常的には、三ヵ月分の収入に当たる金を貸した相手には、容赦なく借金の返済を迫ることも忘れて。つまり、あまりに巨大な金額の借金帳消しという場面が直前にあるために、それ自体としてはきわめて日常的な〈借りたものは返せ〉という要求が、ありえないほど酷い現実と見えてしまうのです。なんと巧みな演出でしょう。

 三つ目の特徴として、ふるまいの描写に関する反復技法があります。二人の家来は、各々の債権者の前で、ほぼ異口同音に「どうか待ってください。きっと(全部)お返しします」と弁解します(26.29節〔新共同訳は敬語と普通語に訳し分ける〕)。他方で王は、第一の家来を呼びつけて「お前が頼んだから」(32節)と言いますが、この「頼む」という動詞は、第二の家来が第一の家来に向かってなした動作を受けています(29節「しきりに頼んだ」)。つまり王は、物語り手が第二の家来の嘆願を描くのに用いた言葉を、第一の家来について用います。まるで、お前が私の前でしたことは、お前の仲間がお前の前でしたことだ、とでも言わんばかりに。注意深い聴衆は、皮肉なトーンを聞きとったのではないでしょうか。そしてもう一つ、第一の家来は、自らが仲間に加えた「引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」(30節)という処罰を、今度は自分が王から加えられます。すなわち「主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」(34節)。

 最後に注目したいのは、王のふるまいの動機づけです。彼は家来を「憐れに思って」(27節)、一万タラントンの負債を帳消しにしました。そしてその家来が百デナリオンの負債をもつ仲間を赦さなかったと伝え聞いて、彼を呼び出したとき、王はふたたび「憐れみ」の動機を持ち出します。「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。

IV

 ところでマタイ福音書は、このイエスの譬えを、教会生活のあり方をめぐる段落の最後に置いています。今日の聖書箇所の冒頭ではペトロが、おそらく弟子たちを代表しつつ、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問います(21節)。するとイエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22節)と返答し、「そこで」(ギリシア語は「それゆえ」)と言ってこの譬えを語ります(23節以下)。つまりこの譬えは、〈教会共同体の中では無限の赦しが実践されなければならない〉という教えを、福音書の読者に納得させるためのものなのです。

 それでもこうした配置には、ある大きな解釈上の困難があります。それは物語の末尾の王のふるまいと、マタイのイエスの適用句です。すなわち「主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(34-35節)。

 信仰の原理は神が与える無限の赦しである――なるほどマタイは、そう考えています。だからこそ教会生活における神の意思の貫徹は、メンバー相互の無限の赦しあいでしかありえないと。しかし問題はその先です。信徒相互の無限の赦しあいを拒絶する者はどうなるでしょうか。マタイによれば、その者は神に対する反逆者として救いから排除されるのです。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(35節――さらに15-17節を参照)。つまり先立って与えられた神の赦しという賜物から、自らの信仰の同胞を赦さなければならないという要求が生じる一方で、受けとった赦しを信仰の同胞にも分け与えるのを拒絶することから、裁きが生じるというわけです。

 マタイが伝えるこの譬えの結びは、〈無限に赦す神は、互いに赦そうとしない人間を無限に罰する〉という矛盾を孕んでいないでしょうか。どうして「無限に赦せ」という話が、「ぜったい赦さんぞ」という話で終わるのでしょうか。けっきょくその場合、神の赦しは、人間同士の赦しに続くものであり、決してそれに先立つものでないことにならないでしょうか。実際マタイのイエスは、「私たちの負い目を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と教えました。

 ある研究者の意見では、元来のイエスの譬えは、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」という訴えの言葉で終わっていました。自らいったん下した決定を、王たる者は覆してはなりません。憐れみにもとづく負債の帳消しを、返済の正義にもとづいてもう一度取り消す王の存在は、社会を恐怖とカオスに陥れることでしょう。つまり王が家来を投獄したり(34節)、イエスが弟子たちを〈赦さない者は裁きにあう〉と警告するのは(35節)、伝承史的に二次的なマタイの編集句であろうというのです。私もその可能性は大きいと思います。

 マタイは、教会員相互の無限の赦しという要求が満たされない場合に焦点を当てています。それほど困難な状況が、彼の教会の中にじっさいにあったのでしょう。それでも彼の描く神のイメージは、赦しの恵みが裏切りによって破壊されてよいのか、という問いをオープンなまま残しています。

 二〇世紀が終わるとき、「ジュビリー2000」という運動があったのを覚えておられますか。旧約聖書にある「ヨベルの年」にちなんだ運動です。「ジュビリー」とは「ヨベル」のラテン語表記に由来する英語読みです。レビ記二五章によれば、七年を七回くりかえして四九年がたつと、「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(レビ記25,10)。つまり負債のために奴隷になった者たちは解放され、借金のかたに奪われた土地は返却されて共同体が回復するというしくみです。「ジュビリー2000」は、この故事にちなんで、西暦2000年をヨベルの年として、世界中の最貧国が抱えている返済不可能な債務を帳消しにしようという運動でした。先進諸国やIMF、あるいは世界銀行による融資が、必ずしも支援を受ける国の実情に即しておらず、むしろ債権国が利子で儲かるしくみに初めからなっている、という批判がそこに込められていました。いくつかの国はじっさいに部分的に債務を放棄しましたが、日本政府はこれを拒否しました。

 今の時代に、「ジュビリー2000」の精神を受け継ぐ方法はあるでしょうか。それはもしかしたら、バブルでぼろ儲けした人たちが、庶民の税金を用いた「公的資金の注入」の肩代わりを少しでもすることかも知れませんね。

 いずれにせよイエスの譬えの王は、負債の返済を要求するという正義から、負債を帳消しする権限へと、債権者としての役割を変えました。その動機は、さきほど申し上げたように「憐れみ」です。債権者の権利には借金を放免してやること、つまり自らの権利を放棄することが含まれます。これを転用すれば、神の赦しは神の権利放棄であると言えるのかも知れません。しかしそれによって神は、自らが神であることを止めません。むしろ逆です。赦しによって、つまり自らの権利を放棄することによって、神は自分が真の神であることを示すのだと思います。さて神から罪赦された私たちは、いったい何をするのでしょうか?



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