今日の箇所で、パウロは先ず、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」 (12節)と述べた。私たちの肉体という身近な例を用いながら、教会も一つの「有機的統一体」であるということを明らかにしたのである。
そのことを、彼は14節以下でさらに分かり易く説明する。すなわち、「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『私は手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(14-18節)。
つまり、私たちの肉体がいろいろに異なった部分を備えながら一つの全体を形成しているように、教会も、ユダヤ人・ギリシャ人(13節)など異なった人種、奴隷・自由人など異なった身分、足・手・耳・目・鼻(15節以下)など異なった機能を果たす者たちが集まって、いわば「一つの有機体」を成している、というのである。パウロは、「有機体」という言葉は使わなかったが、そういう内容のことを述べた。
『広辞苑』で「有機体」を引くと、「多くの部分が一つに組織され、その各部分が一定の目的の下に統一され、部分と全体とが必然的関係を有するもの。自然的なものとの類推で、社会的なものにも用いる」とある。パウロが言っているのは、正にこういうことだ。ここから、私たちの代々木上原教会の「あるべき姿」、あるいは、日本基督教団の「あるべき形」について教訓を引き出すこともできるだろう。
しかし、私には、パウロがここで単に教会の「あるべき姿」を論じているだけだとは思われない。そもそも、彼が「体」の比喩を持ち出したのはなぜだろうか? そのことによって「いのちの神秘」を指し示すためではなかっただろうか。
同じ『コリントの信徒への手紙一』の6章に注目したい。ここでパウロは、次のように述べている。「体は・・・主のためにあり、主は体のためにおられるのです」(6章13節)。つまり、私たちの体は、キリストと不可分に結ばれている。そして、そのように私たちをキリストと結びつけるのは、彼の「復活のいのち」に他ならない。「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださる」(同14節)。だから、私たちの体は、その「復活のいのち」が現れる場だ、というのである。
「きりすとわれによみがえれば / よみがえりにあたいするもの / すべていのちをふきかえしゆくなり」(八木重吉)。これは「いのちの神秘」である。その「いのち」に仕えるために私たちの体はあり、体の各部の機能もそのために与えられている。
私たちの体のどんなに小さな部分を取ってみても、「いのち」を阻害するために与えられたものは一つもない。私たちだけではない。自然界のすべての「いのち」が、そのように造られている。イエスは、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(マタイ6章26節)と言われた。「天の父が鳥を養う」というのは、神は鳥たちの一つ一つの行動が「いのち」に役立つようにお造りになった、ということであろう。
多摩の自宅の近くには、季節の小鳥が大勢集まってくる。少し前まで、椋鳥か何かだと思うが、無数の小鳥がケヤキの大木に宿って賑やかに鳴いていた。時々、パッと飛び立つ。不思議でならないのだが、あの中には指揮官のような、親分のような鳥がいるのだろうか。一斉に同じ円を描いて飛びまわり、やがて元の巣に戻って来る。時には、高圧線の電線に、それも鉄塔に近いところから順番にとまる。
ドキュメンタリー・フィルムを見ると、小さな魚も同様に群れを成して泳ぎ回るが、誰が合図をするのか、どのような信号が発せられているのか私には分からないが、一斉に同じ方向に向かう。もっと不思議なことに、危険な外敵が近づいてくると、群れは忽ち大きな魚の形になって難を逃れる。魚たちが持つすべての機能は、「いのち」を守るために役立っており、一つとしてそれを阻害するためのものはない。このいのちの神秘!
植物も同様である。イエスはこうも言われた。「野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6章28-29節)。ここにも「いのちの神秘」が現れている。
こういう「いのちの神秘」に触れると、アルバート・シュヴァイツアーが「生命への畏敬」と言った気持ちが分かるような気持ちがする。「畏敬」とは、私たちの常識を超えた「神秘なるもの」に対して向けられる「畏れ」と「尊敬」のことである。すべての被造物は「いのち」を目指している。そのすべての機能は、「いのち」に役立つようにできている。この神秘に対する畏敬の心を、私たちは失ってはならない。
パウロが私たちの体の有機的な統一について書いたとき、彼は何よりも先ず、この「いのちの神秘」に対する畏敬の心をもっていたのではないか。また、教会が「一つの有機体」であると論じたのも、単に教会のあるべき姿を示すためではなく、教会がこの「いのちの神秘」を証しするところでなければならない、ということを言うためだったのではないだろうか。