2008.9.28

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「真実を語るということ」

村上 伸

ゼカリヤ書8,16-17; エフェソの信徒への手紙4,25-32

今日の箇所は、直前の「古い生き方を捨てる」(17-24節)という段落の続きである。すなわち、キリストを知る前の古い人は悪に支配され、22節によると「情欲に迷わされ、滅びに向かって」いた。また、「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談」といったさまざまな悪徳がその特徴であった。彼らは「みだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者」(5章4-5節)であった。このような「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(22-24節)。

パウロはこれを受けて、さらに具体的に次のように戒める。先ず「怒り」について。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはいけません」(26-27節)。ここで彼は、恐らく「兄弟に腹を立ててはいけない」マタイ5章22節)というイエスの教えを思い起こしていたのであろう。次に、「盗み」について。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」(28節)。ここに言われている「盗み」の原語は「クレプトー」であって、本格的な(?)「強盗」のことではない。ケチな「コソ泥」である。いずれにせよ、信徒たちの日常生活にはまだ古い生き方がいくらか残っていて、お互いの人間関係を傷つけていたのだろう。それをすっかり払拭せよ、とパウロは命じたのである。

しかし、お互いの人間関係を正しく保つために最も大切なのは、「言葉」である。麻生新内閣の閣僚が早速「問題発言」を連発したと新聞は伝えているが、日本に限らず、一寸した失言(多くの場合、本音であるが!)が「命取り」になる例は、珍しくない。ヤコブ書に、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。・・・ 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。・・・舌は火です。<不義の世界>です。・・・全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火で焼かれます」(3章2節以下)とある通りだ。

「言葉」は、互いの人間関係を美しく高めもするが、逆に醜く壊しもする。「だから」とパウロは勧める。「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」(25節前半)。もう少し具体的には、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(29節)。さらに、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(31-32節)。

そして、これら「言葉」に関する戒めの根本にあるのは、「わたしたちは、互いに体の一部なのです」(25節後半)という認識である。我々は、それぞれ独立した人格ではあるが、同時に、キリストによって「一つの体」の一部として、互いに有機的に結びつけられている。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(コリント一 12章26節)とある通りだ。隣人を生かすことは自分を生かすことなのであり、また、隣人を辱めることは自分を辱めることにつながる。だからこそ、パウロは「それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」(25節)と命じたのである。

だが、「真実を語る」とはどういうことだろうか?

先週の説教の中でも触れた心理学者ヴィクトール・フランクルは、1984年にユダヤ教神学者ピンカス・ラピーデ(同様にホロコーストの生き残り)と対談したことがある。この深い知恵に満ちた対談は、どういうわけか長年公にされなかった。漸く2005年になって『神探求と意味の問題』という題で出版され、昨年第3版が出た。

フランクルは、この対談の中で興味深いことを語っている。強制収容所の苛酷な生活の中では、言葉は別の意味を持っていたというのである。例えば、囚人たちは生き抜くために僅かばかりの石炭やジャガイモなどを盗むことがあった。この行動は、囚人同士の間では「調達する」と言い表され、うまく手に入れた時は、自慢したり互いに祝福したりした。「盗んではならない」という第八戒は、あの情況では全く別の意味を持っていた、というのである。

もう一つの例。彼は強制収容所送りになる前、ウィーンでユダヤ人のための老人ホームを運営していた。その頃、世に名高いナチスの「安楽死作戦」が始まり、ユダヤ人の精神病患者は容赦なく殺された。彼の老人ホームは通常、精神病者は受け入れない。だが、彼は「統合失調症」の患者には脳出血が原因の「言語障害」という診断を、「鬱病」の人には熱による「錯乱」という診断を下すなどして、かなりの数のユダヤ人を受け入れ、救うことができた。厳密に言えば、「隣人に関して偽証してはならない」という第九戒への違反であるが、あの場合は間違っていなかった、と彼は言う。

第3の例は、もっと痛ましい。アウシュヴィッツで新婚の妻と分かれ分かれになるその時、彼は妻に向かって「どんなことがあっても生き抜くんだよ、分かるかい、どんな値を払ってもだ」と言った。彼が言いたかったのは、ゲシュタポの将校たちに求められたら、「姦淫してはならない」という第七戒に背いてでも生き残りなさい、ということだった、と彼は告白している。

「真実を語る」とは、その状況に応じて、何を語れば相手のいのちを守ることになるか、相手を真に愛することになるか、という問題なのである。



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