2008.9.14

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「主に結ばれて」

村上 伸

ゼカリヤ書8,16-17;エフェソの信徒への手紙4,1-6

 この礼拝は「教会カンファレンス」の開会礼拝を兼ねている。私は今日の説教を、「平和をつくりだす教会」という総合テーマを念頭に置いて、一つの物語から始めたい。

 この夏、私はライプツィッヒのニコライ教会を再訪した。この教会は、1989年の秋、「ベルリンの壁」崩壊をもたらした東独の大変革の発端となった場所である。あの頃、東独の現実を憂える人々が毎週月曜日の夜ここに集まり、正義と平和と環境保全のために祈っていた。「月曜祈祷会」という。参加者の数は急速に増え、やがてこの人たちは祈りの場から街頭に出て行き、社会に訴えるようになった。このデモが、遂に体制を揺るがしたのだが、その際、終始「絶対非暴力」の原則を崩さなかった。そのために、「東独では一発の銃声も響かずに変革が実現した」と賞賛され、また、「1990年のノーベル平和賞はライプツィッヒ市民に与えられるべきだ」という提案がなされた程である。ニコライ教会は、正に「平和をつくりだす教会」となったのであった。

 さて、中に入って書籍コーナーで資料を探していると、「釘の十字架」の図案をあしらったリーフレットが目についた。私はこの「釘の十字架」にはかねてから関心を持っていたので、それを読んだ。そこには感動的な物語が書かれていた。

 第二次世界大戦の最中、1940年11月14日の深夜、ドイツ空軍の猛爆撃によって英国コヴェントリーの大聖堂が焼け落ちたが、大聖堂のリチャード・ハワード司教は廃墟と化した礼拝堂の正面の壁にFather forgive(父よ、お赦し下さい)という言葉を刻んだ。「報復という考えをすべてかなぐり捨てよう」という意図からである。そして、焼け跡から集めた釘で十字架を作ってもらい、大聖堂が再建されたとき、それを祭壇に飾った。これが「コヴェントリーの釘十字架」(Nail cross)として知られるようになり、全ヨーロッパに広がった和解のための運動の象徴となったのである。

 今では、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ポーランド、スロヴェキア、ベラルーシなど世界200ヶ所以上、ドイツにも約50ヶ所に「釘十字センター」が出来、「コヴェントリーの精神」に従って、敵への愛・対話と相互理解・非暴力による紛争解決・祈りと労働、などを目指して努力しているという。ニコライ教会もその一つである。

 1959年に作られた「コヴェントリーの和解の祈り」を紹介したい。これは、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」ローマ3章23節)という聖句で始まり、次のような祈りが続いている。

「憎しみが、人種を人種から、民族を民族から、階級を階級から切り離しています。父よ、お赦し下さい!
人々と諸民族は、自分のものではない物を手に入れようとあがいています。父よ、お赦し下さい!
所有欲が、人々の労働を食い物にし、大地を荒廃させています。父よ、お赦し下さい!
私たちは、他者の成功や幸せを妬んでいます。父よ、お赦し下さい!
私たちは、囚われている人々、故郷を追われた人々や難民の苦しみに十分な関心を払っていません。父よ、お赦し下さい!
性的な暴行によって、女や男や子供が辱しめられています。父よ、お赦し下さい!
傲慢が、神ではなく自分自身に信頼するように私たちを惑わしています。父よ、お赦し下さい!」

 一つ一つの祈りの終わりに、コヴェントリーを象徴する「父よ、お赦し下さい!」という言葉が来るのが印象的だ。そして、最後は再び一つの聖句で結ばれる。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」エフェソ4章32節)。

 これは、私たちの教会が目指していることと同じではないか! 今回のカンファレンスのサブテーマ「戦争に抗して」・「貧困に抗して」・「キリスト者の自由」とも重なる。私たちの教会は、事実上、この「コヴェントリーの精神」によって歩んでいるのであり、世界的に見れば決して孤独ではない。このことを心に刻みたい。

 さて、今日の説教テキストに目を留めよう。ここを読むと、あの「コヴェントリーの精神」の背後には、このような聖書の信仰があることが分かる。

 パウロは(あるいは、パウロと名乗る筆者は)、「囚人となっているわたし」(1節前半)と言う。彼は、もしかしたら獄中からこの勧めを書いたのかもしれない。そうだとすれば、1節後半-3節の、「[あなたがたは]神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」という勧めには、遺言のように切実な気持ちが込められていたであろう。

 これは単なる道徳訓ではない。これらの勧めの背後には、「主に結ばれて」(1節前半)いるという自覚がある。「体は一つ、霊は一つです」(4節)から始まって、「一つの希望」(4節後半)、さらに、「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、すべてのものの父である神は唯一です」(5-6節)というところまで、「一つ」という言葉が七回も繰り返されるが、このことによって筆者は、「あらゆる対立に先立って、主に結ばれたことで、一致は既に与えられている」ということを繰り返し確認しているのだ。

 それこそ、エフェソ2章14-16節に言われている信仰の現実なのである。すなわち、「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。私たちも、この信仰によって歩んで生きたいと切に願う。



礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる