I
遠くない将来に、私たちの教会は主任牧師の交代の時期を迎えようとしています。それぞれ独自の歩みを続けてきた二つの教会が合同して代々木上原教会が設立されたのが1997年。この間、私たちの教会はともに祈りながら歩みを続け、新しいメンバーも加えられて一つの教会へと成長しました。昨年の教会カンファレンスでは教会創立10周年を、感謝をもって祝いしました。他方で、会員の高齢化や教会学校の生徒の減少といった、他の日本の諸教会に共通する問題を、私たちの教会も抱えています。とりわけ主任牧師の交代は、私たちが本当に一つの自立した教会になったかどうかの、重要な試金石になるのかも知れません。
教会は、神に呼び出された者たちの集まりです。ですから自分たちの能力の多い少ないというよりも、むしろ神が約束として与えた希望から歩むべき方向性を探るのが本筋です。そのように今年度のカンファレンス準備委員会も考えて、「平和をつくりだす教会」というヴィジョンにたどり着きました。もちろんイエスの山上の説教にある有名な言葉、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ5,9口語訳)と響きあう言葉です。
カンファレンスのための二つのサブテーマ「戦争に抗して」「貧困に抗して」が、「平和をつくりだす」ために抗うべき対象に注目している一方で、三つめの「キリスト者の自由」は、抗うための主体的なよりどころを指しています。自由でなくて、いったいどうやって戦争や貧困に抗うことができるでしょうか。一人ひとりが信仰者として自立していないとき、いったいどうやって「私たちの教会は〈信徒の主体性〉を重んじる」という年来の宣教方針を具体化できるでしょうか。
本日のテキストの冒頭の一節はカンファレンスのための聖句です。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(1節)
私には「奴隷の軛」という表現が、神の約束された平和に背く「戦争」や「貧困」と二重写しに見えます。〈キリストは自由のために君たちを解放した。だからしっかり立ちなさい。戦争という軛、貧困という軛に二度とつながれてはならない〉。――もっとも歴史的には、パウロが「奴隷の軛」と表現したとき、彼の念頭にあったのは別のことでした。でも両者は、君たちは自由なのだというメッセージを介して、深いところでつながっています。
II
パウロが「奴隷の軛」という表現で念頭に置いていたのは割礼です。――「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(2節)、「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされます」(4節)、あるいは「このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか」(11節)などの発言をご覧ください。
ガラテヤ教会の信徒たちは異邦人キリスト者ですが、エルサレムから派遣された律法主義的ないしユダヤ主義的なキリスト教宣教者たちから割礼を受けるよう求められて、その方がよいのかも知れないと思い始めていたようです。エルサレムからきた宣教者たちは、こう言ったのかも知れません、「キリストを信じて洗礼を受けるだけでは足りない。これに加えて、割礼を受けて律法を守る生活を送らなければ、つまりユダヤ教に改宗しなければ本物のキリスト者ではない」。
他方パウロは、自らはユダヤ人ですけれども、割礼や律法遵守なしの異邦人伝道の推進者の一人でした。その基本的な考え方は、神がキリストの出来事を通して示された愛は全人類に及ぶ。今やユダヤ民族に属さない者も、この愛に対して信頼で応えることで神の前に義とされるというものです。
つまりこの論争では、真のキリスト教のよって立つべきものは何か、それは自由な信仰のみなのか、それとも民族伝統の遵守がそれに加わらないとダメなのか、ということが問題になりました。これに対するパウロの理解は、次の言葉に集約されています。
あなたがたは皆、信仰を介して、キリスト・イエスにあって神の子なのです。キリストへと洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一人だからです。(ガラテヤ3,26-28)
この「もはや〜も〜もない」という言葉は、洗礼式で唱えられた宣言文であったと思われます。つまりキリストの支配される領域に入れられるとき、ユダヤ人とギリシア人という出身民族の違い、奴隷と自由人という社会身分の違い、男と女というジェンダーの違いは無化されて、全員が等しく信仰を介して神の自由な子どもたちだというわけです。
「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない」(4節)、「割礼の有無は問題ではない」(6節)とパウロは言います。つまり彼の理解では、割礼に代表される、ユダヤ民族を他の諸民族から区別するアイデンティティのしるしは、おそらくこの世的な個性の一部ではあり続けるのでしょうけれど、もはや救いの普遍的な構成条件ではありません。
では、民族や身分やジェンダーを超える、キリストにおける信仰共同体に共通する特徴は何でしょうか。この境界横断的な集団のアイデンティティのしるしは何でしょうか。三つほど、キーワードをとりあげます。
III
一つめは「自由」という概念です。冒頭の1節は原文をそのまま訳すと、およそこうなります。
自由のために(/自由によって)キリストは君たちを自由にした。だからしっかり立ちなさい。再び奴隷の軛の下に敷かれてはならない。
「自由」は、先ほどの洗礼式の宣言文にもあったように、何よりも「奴隷」の反対概念です。ですから「自由にした」とは奴隷身分から「解放した」という意味です。もっともパウロは社会制度としての奴隷制の廃止を提唱しているのではありません。「隷従から解放する」とは宗教的な比喩です。いったい「隷従」とは何を指すのでしょう。別の箇所でパウロはこう言います。
あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。(ガラテヤ4,8-9)
ガラテヤ教会の信徒たちは、もともと異邦人つまりユダヤ教出身ではありません。彼らがイエス・キリストの父なる神に帰依する以前に崇拝していた神々との関係を指して、パウロは「奴隷として仕えていた」といい、その神々の支配下に君たちは再び転じようとでもいうのか、と問うています。
しかしガラテヤ教会の信徒たちは、割礼を受けてユダヤ教徒になるよう説得されて、半分その気になっていたのです。その彼らに向かって、君たちはもう一度〈異教〉の神々を崇拝しようというのかというパウロ問責は、いったいどういう意味なのでしょうか。この問いかけが意味をなすのは、ガラテヤの信徒たちがかつて崇拝していた「無力で頼りにならない」、つまり救いをもたらすことのできない「支配する諸霊」と、ユダヤ教の割礼ないし律法遵守が、同列におかれているからです。異教の神々とユダヤ教の聖なる習慣とが、キリストを通して与えられた自由を等しく傷つけるものとして、本質的に同じものと見なされているのです。かつてのファリサイ派ユダヤ人の発言として、まこと驚くべき発言です。
キリストがもたらす自由は、出身民族や社会的身分、男女の違いや、神々の崇拝など、従来人間のアイデンティティを形づくってきたさまざまなものをすべて剥ぎとり、いわばすっからかんの状態にします。イエスの十字架の死は、彼が命をかけて追い求めてきた「神の国」の理想すら一度は否定されて、それこそ〈すっからかん〉になって死んだことのしるしではなかったでしょうか。パウロが「十字架のつまずき」(11節)というのは、そうしたことを含むように感じます。そしてこのイエスを、神は死者たちの中から起こした。
「良き伝統を活かし、異なった意見を排除することなく、合意できたことから実行に移す」という私たちの教会の設立以来の宣教基本方針もまた、この神のクリエイティヴな働きに対する信頼を損ねるものであってはなりません。私たちの教会の前身である上原教会もみくに伝道所も、それぞれにある意味で教会の分裂を経験しています。新しく加わったメンバーには、この教会で洗礼を受けた方々と並んで、他教会から転会してきた方々がおられます。これは私たち皆が、等しく一度は〈すっからかん〉になったということではないでしょうか。そもそも洗礼を受けるとは、そういうことです。古い自分に一度死んで、新しく生まれる。これが私たちの「良き伝統」の一部です。
IV
二つ目のキーワードは「希望」です。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」(5節)とあります。「義とされた者の希望が実現することを」と訳された箇所は、原文では「義という希望を」という簡素な表現です。ここでいう「義」とは、「義とされた者たち」を含む人間というより、むしろ神が実現する人および世界との関係のことです。神はこの希望を、キリストの復活を通して私たちに示した。それは終末論的な希望です。私たちの能力や予算の見積もりに基づいて立てる年間計画とか人生設計よりも、はるかに大きなものです。私たちは自らのアイデンティティを保証してきたものを剥ぎとられて自由になり、神の創造的な働き(「霊」)だけ、つまりキリストに新しい命を与えた神の力にのみ信頼することで、義という希望の到来を待っている。
私たちのあり方は、そのような意味の希望です。かりに教会がどんなに少子高齢化しようと、私たちを導くのは「義という希望」です。この希望を「平和」と呼んでもよいと思います。
V
三つ目の、そして最後のキーワードは「愛」です。教会カンファレンスの三つのサブテーマにふさわしい聖書箇所を求めて、そのたびに隣人愛の主題があらわれるテキストに辿りついたのは、偶然とは思われません。
「割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(6節)とある発言の後半部分も、原文を適切に訳せば「愛を通して働く信仰こそ大切です」となります。口先だけで愛の実践を伴わない信仰はダメだ、というのがパウロの本意ではありません。むしろ逆です。信仰は愛を通してその働きを発揮する、神への信頼は隣人愛となって表れるという意味です。自分で自分をつくりだすことを放棄して、神にまったく信頼する者は、その神が愛する他者に対して開かれてゆくからです。
さらに「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(13節)とある箇所も、「罪を犯させる」という表現は原文になく――今日は翻訳についての文句が多くて申し訳ありません!――、そのまま訳せば「自由を肉のための機会(原義は「前線基地」)とするな、むしろ愛を通して互いの奴隷になりなさい」となります。
「肉のための機会」とは、「肉に罪を犯させる」という新共同訳の翻訳がもしかすると連想させるかもしれない、性欲とか金銭欲といった倫理のレベルにとどまりません。それは、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」の反対、つまり生まれや身分などを、自分の救いにとって最終決定的なものと見なすことを意味します。「自由」とは、もともと奴隷でないという意味だったのですから。
他方、「仕えよ」と訳されている動詞の原義は「奴隷になりなさい」です。自由へと召し出された者たちは、互いの奴隷になりなさい。そして「奴隷になる」とは、他者の命のために生産的に働くという意味です。古代世界の奴隷たちは、主人とその家族の生活を支えるために、食事その他もろもろの家事を行い、農耕労働その他の生産活動に従事したのでした。
私の限界をはるかに超える希望に導かれて、自己追求や自己実現の呪縛から解放された人が、他者の命のために生産的に労働する。――先週、アフガニスタンで殺害されたペシャワール会の伊藤和也さんのことを思わずにはいられません。彼は現地の人々と同じ服を着て、土地の言葉を話し、子どもたちと遊びながら、アフガニスタンを襲っている大旱魃と戦うために農業指導に従事しておられたと聞きます。彼が拉致されたとき、村人たちが1,000人も出ていっしょに山狩りをしたそうです。村人たちは、「オレたちの身内がさらわれた」と思ったにちがいありません。伊藤さんが、人々との信頼関係だけを頼りに生きていたしるしです。
私たちは自分の出自や能力で自分を立てることから解放された。むしろ神だけが与える義という希望を待ち焦がれている。愛を通して働く信頼こそが大切だ。だから私たちは互いの命を支えるために働こう。――これがパウロの呼びかけであり、私たちの自由と自立の内実なのだと思います。