I
来月中旬に、今年度の教会カンファレンスが開催されます。準備委員会が周到に用意を進めています。今年の総合主題は「平和をつくりだす教会――私たちのヴィジョン」です。「戦争に抗して」「貧困に抗して」そして「キリスト者の自由」という三つ視点から、この総合主題について、私たちの教会が将来に向けて本当に大切にしてゆかなければならないことについてゆったり語り合い、ともに祈りたいと願っています。
今日のテキストに照らせば、戦争や貧困に抗して平和をつくりだすことは、「互いに愛し合う」(7/11-12節)ことと関係がありそうです。逆に、戦争や貧困は「兄弟を憎む」ないし「目に見える兄弟を愛さない」(20節)ことが積み重なった、その結果なのでしょう。そして私たちがそこにむけて解放されている自由とは、何よりも互いに愛し合うことへの自由なのだと思います。「互いに愛し合う」ことを教える今日のテキストに照らしながら、戦争や貧困に抗して「平和をつくりだす」とはどういうことなのか、ごいっしょに考えましょう。
II
「目に見える兄弟を愛さない」とは、とりわけ戦争や貧困との関わりの中で、どういうことなのでしょうか?
週報の「牧師室から」の欄でもふれたように、雨宮処凛(あまみやかりん)/菅野稔人(かやのとしひと)・共著『「生きづらさ」について――貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』(光文社新書358、2008年)という対談集を読みました。この書物では、非正規雇用の「派遣」社員として働く若者たちの過酷な状況が、いわゆる精神的な「生きづらさ」を抱えている人々の状況と結び合わせて論じられています。次のような一節があります。
萱野 …派遣業界では、労働者を派遣することを「弾を込める」っていうんですね。
雨宮 はい。だから彼らの賃金も人件費じゃなくて、「物件費」として管理されています。…工務部、調達部という、部品を管理する部署が派遣の管理をしているということを聞いて、「本当に部品なんだ」と思いました。…
萱野 要するに、おなじ人間としてみていないということですよね。だからこそムチャクチャな働かせ方もできる。(同書55頁)
ふたつほど悲しい具体例をご紹介します。一つ目は、派遣で働く人の多い引越し業界で、現場で指示を出す一人の正社員が、派遣さんたちをスタンガンで脅しながら働かせていた。しかもそのさいに「おまえら、ぜったいお客さんとしゃべるな」と命じていたというものです。もうひとつは22歳の派遣の男性が、ジュースの缶の製造工場で、本来は二人一組でやるべき危険な作業を、現場にいる正社員が休憩時間だったために、猛暑の中を一人でしていて踏み台から転落し、やがて亡くなりました。その労災裁判の中で、「なぜ派遣の彼を一人で働かせたのか」という質問に対して、正社員は「なんで自分たちが、関係ない、よその会社の人の面倒までみなくちゃいけないんだ」と言ったそうです(52-53頁)。
人を人とも思わない「弾を込める」という業界用語そのものが、すでに戦争とのつながりを予感させます。8月15日の夜、第二次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島での戦闘について、元日本兵と元米兵の証言を集めたドキュメンタリー番組がNHKで放映されました。大岡昇平の小説『レイテ戦記』にも描かれた戦いです。戦闘に巻き込まれた現地住民もたくさん犠牲になりました。しかし何よりも衝撃的なのは、大敗を喫した日本軍の司令部が、ほんのわずかの、まだ戦うことのできる兵士たちだけを救出した後、他の大多数の負傷して歩けない兵士たちを、武器も食糧もないまま見棄てたことです。〈自分たちだけで物資を調達して、死ぬまで戦い続けよ〉という命令を残して。見棄てられた兵士たちの大部分は餓死したのだそうです。他方で2007年7月、北九州で生活保護を辞退させられた50代の元タクシー運転手の男性が「おにぎりを食べたい」という言葉を日記に残して餓死した事件を、皆さんは覚えておられるでしょうか。
戦争も貧困も、ある人々を自分たちの関係から切り離して、もはやいっしょに生きる仲間としてではなく、いくらでも代えのきく銃弾のように扱う点で、そして状況が手におえなくなると「お前たちの自己責任で生きろ」と死に追いやる点で、まったく同じなのです。
人間としての関係から切り離された状態について、先ほど引いた本の中で菅野さんは、次のように言います。
他人から認められないと、自分を肯定できない。これはアイデンティティが他者からやってくることと関係しています。他人から肯定されることがあまりない人は、いつまでたっても自分を肯定できなくて、けっきょく自己評価を上げられず、自己責任の呪縛から逃れられない。自分を肯定できなければ、他者とのコミュニケーションに踏み出す自信もなくなりますから、社会的にも活動の幅がどんどん狭くなっていって、頼れる人間関係も狭くなり、不安定な生活条件に追い込まれていく。(同書97頁)
彼によると、いわゆるネットカフェ難民、つまり「難民化してしまうぐらい不安定な生活状況に置かれている人というのは、そもそも社会との回路をほとんどもっていない」のだそうです(同書101頁)。
世界中の紛争地域に、また社会的な差別や抑圧が存在するところには、他者からの承認や社会との回路を断たれた人々が必ずいます。人々が投げ込まれる深い絶望や憤怒は、私たちのすぐ足元にもあり、自殺を含む自傷行為あるいは通り魔殺人事件となってあらわれるのです。
III
こうした問題に、「平和をつくりだす」ことをヴィジョンとして掲げる教会が、無関心であってよいはずはありません。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」――そうヨハネの手紙は教えます(7-8節)。
この発言の論理は、神の本質は愛であるので、信仰者が自らのアイデンティティを神から受けとる以上、互いに愛し合うのがふさわしいという意味に理解できます。事柄の論理としてはそのとおりなのでしょう。しかしこれを認識の順序、つまり経験的にそのような発言をするに至った順番に置き換えると、おそらく次のようになるのではないでしょうか
(1)イエス・キリストのできごとに接して、私たちは自分が他者から肯定されて、初めて自分を受け入れるという経験をした。
(2)その結果、今まで人から切り離されてバラバラに生きてきた私たちに、相手を自分のいのちとの関わりの中で受けとめることができるようになった。人を信じる、信頼することを可能にするような社会との新しい回路が、私たちに開かれた。
(3)このことこそ、神が望まれたことに違いない。今は神が私たちの内に、また私たちが神の内にあると信じることができる。神の本質は愛なのだ。
(4)私たちは互いに愛し合うことで、この世界に対して愛の神を証言しつつ、神の愛の中にとどまろう。
他者から与えられた新しい自己肯定の経験は、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪をつぐなういけにえとして、御子をお遣わしになった」(10節)という発言に、もっとも明瞭に表れています。「私たちの罪をつぐなういけにえ」と訳された箇所は、「私たちの罪のための贖いの供え物」と訳すことも可能です(大貫隆・訳、岩波版『新約聖書』)。「罪」とは、いのちの関係から切り離されていること、そこにいるのにいないかのように扱われることに他なりません。〈いじめ〉も同じことです。キリストは、この雁字搦めの状態、萱野さんのいう「自己責任の呪縛」からの解放をもたらしました。「その方によって、私たちが生きるようになるため」(9節)とあるとおりです。新しい自己肯定の経験は、自分たちが「神から生まれた」(7節)という驚くべき、大胆な発言にもみてとれます。「神から生まれる」とは、他人との競争や比較を超越した、まったく新しいアイデンティティを受けとるという意味ですから。
そこから社会への新しい回路が開けたことは、すでに冒頭の「愛する者たち」(7/11節)という呼びかけに表れています。これは字義通りには「愛される者たちよ」という意味だからです。「あなたの存在は私にとって尊い」と互いに呼びかける関係が、すでに実現しているのです。何度もでる「私たち」という一人称複数形も、愛されて自分を受け入れるようになった人々の連帯を示唆します。自分たちはこの世界にあってもはや恐れない。むしろ確信(原義は「率直さ」)をもっていると言われることも(17-18節)、キリストを「世の救い主」(14節)として経験した人々に新しく開けた視野です。キリストの力はこの世全体に及ぶのですから、もはや必死で空気を読みながら、自分をごまかしつつ防御を固める必要はなくなりました。
この経験から、神の本質に関する洞察が生まれます。それを媒介するのが、神から与えられた霊です。「神は私たちに、ご自身の霊を分け与えてくださいました。このことから、私たちが神の内にとどまり、神も私たちの内にとどまってくださることが分かります」(13節)。私たちが互いを大切にすることの中に、神の霊の働きがある。その働きが「愛」と呼ばれています。神の本質は愛の働きであると。だからこそ、「私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされている」とあるのだと思います(12節)。
キリストを通して与えられた自己肯定の経験、そこから開かれた社会への回路と神の本質への洞察は、信頼によって結ばれた関係を生きようという勧めに至ります。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」(7節)、「愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」(11節)、そして「神を愛する人は、兄弟をも愛する。これが私たちが神から受けている掟です」(21節)。この相互愛の勧めは段落の冒頭、中央、そして末尾に配置されて、全体を構造づけています。
「神から受けた掟」という表現は、努力して掟を守ることによって、自己責任において新しい現実をつくりだしなさいという意味ではありません。新しい現実は神によってすでに実現されています。私たちに求められているのは、すでにいま私たちを支えているものにふさわしく生きることです。
IV
最後にもう一度、雨宮・萱野両氏の共著から、ある宣言文を紹介します。派遣動労者のための、つまり正社員だけのためでない労働運動――「インディーズ系」の労働運動と呼ばれています――が全国に広がりつつあるそうです。そのひとつ、今年の「世界メーデーのための札幌宣言」の一部にこうあります。
「…わたしたちは、孤独で不安定な日々を生きることを強いられている。/そしてときには、その中で死にゆくことさえも強いられているのだ。/だからわたしたちは、つながりの中で生きることを求める。…連帯を壊す企て、競争へと駆り立てる力、つくられる格差や貧困、あらゆる戦争や差別…/わたしたちを力でねじ伏せ、支配しようとする一切のものを恐れてはならない。/わたしたち一人ひとりは、何にもましてすばらしい。/さあ、喜ぼう。大いに喜ぼう。/新しい社会は、すでにわたしたちのものである。」(同書181頁)
なんて素晴らしい言葉でしょう。ここには「格差や貧困、あらゆる戦争や差別」という言葉があります。それらの、人を「力でねじ伏せ、支配しようとする一切のものを恐れてはならない」と。キリストにこそ言及はないものの、この文章には、「神を愛する人は、兄弟をも愛する。これが私たちが神から受けている掟です」という聖書の言葉と、同じ精神が宿っています。パウロが、「自由」について、次のように述べているのも同じです。
この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だからしっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5,1)
私たちの自由は、互いに愛し合うことへの自由であり、この生き方を押しつぶそうとする「奴隷の軛」に対して自覚的に否ということへの自由です。