7節で主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と約束された。だが、一体、何を求め、何を探し、何の門を叩けというのだろうか?
それは、直ぐ前の6章に明らかである。8節でイエスは「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われた後で、9-13節の「主の祈り」において、私たちが「何を」祈り求めるべきかを簡潔に教えられた。
すなわち、父なる神の御名が崇められますように。その真実の支配(御国)が来ますように。御心が天で行われている通りこの地上でも行われますように。私たち一同に今日食べるパンが与えられますように。私たちの罪が赦されますように。私たちを悪から救って下さいますように、ということである。
「求めよ。さらば与えられん」と言われたのは、それを受けているのである。真剣に祈り求めさえすれば必ず与えられるという約束だ。その際、イエスは「親子の関係」を例にとって分かり易く説明する。子供たちがパンや魚を欲しがっているのに、食べられない石ころや、危険な毒蛇を与える親はいない。そのように、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(11節)。
ところで、「良い物」とは何か? ここではパンや魚を指しているが、むろん、それだけではない。それは、少なくてもいいから必要な衣食住が保証されること、それを台無しにする戦争やテロがないこと、また、社会に公平と正義が行われることだ。聖書が「平和」(シャローム)と言っているのは、そういうことである。私たちが求めなければならないのは、このシャロームである。
先週は、広島と長崎で「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が行われた。ちょうどその頃ヘレン・カルディコットの『狂気の核武装大国アメリカ』(今日の週報参照)を読んでいたせいか、私は一層「原爆の悪」を思わずにいられなかった。そして、峠三吉の有名な詩を思い起こした。
父や母、年より、子供たち。戦時とはいえ、彼らと一緒に暮らしていた穏やかな日常。それを原爆は一瞬で奪ってしまった。それを返せ。彼はその時、自分の人格も破壊されてしまったように感じたのだろう、「私を返せ・・・人間を返せ」と叫ぶ。そして最後に、呻くようにして、「人間の世のある限り、崩れぬ平和を、平和を返せ」と求めた。この「平和」は、聖書の言う「シャローム」と同じ内容ではないだろうか。
もちろん、私たちは、日本が犯した罪を棚に上げて「原爆の悪」だけを責めるわけには行かない。栗原貞子の「ヒロシマというとき」という詩がある。
なお続くのだが、栗原さんはこの印象的な詩を次のような言葉で結んでいる。
このことを含めて、私たちはシャロームを求めるのである。
だが、核兵器をめぐる世界の状況は、冷戦期よりも現代の方がむしろ深刻だとカルディコットさんは書いている。莫大な費用を投じた研究が相変わらず進められており、その結果、核爆弾の威力は今やヒロシマ型原爆の数十倍にも達しているという。しかも、それが世界中に拡散する危険がある。状況は決して楽観を許さない。シャロームを求める私たちの熱い祈りは果たして聞かれるのだろうか?
しかし、私は、6日の式典で広島の秋葉忠利市長が発した「平和宣言」に注目させられた。彼は核兵器の廃絶を強く訴えた後で、「米国の核政策の中枢を担ってきた指導者たちさえ、核兵器のない世界の実現を繰り返し求めるまでになった」ことに言及している。これは明るい兆候である。その上で彼は、「核兵器の廃絶を求める私たちが多数派であることは、様々な事実が示している」と断言し、その一例として「平和市長会議」の活動が世界的に広がりつつあることを挙げた。
核兵器の廃絶を求める私たちの方が、地球規模で見れば今や多数派である! そして、世界には「パラダイム変換」が起こりつつある、と秋葉さんは言う。この事実に私たちはもっと注目すべきではないか。
私たちの世界は、一見、多くの悲観的な現実があるにもかかわらず、「核による抑止」という悪魔的な思想の呪縛から、ゆっくりとではあるが脱け出しつつあるというのだ。こういう形で、神は私たちの求めを聞いて下さったと信じる。「求めよ、さらば、与えられん」という主イエスの約束は、それが十字架と復活の主の約束であるが故に、廃ることがないのである。