私たちの教会では、年に一度は主日礼拝を「地球環境の日」として守ることになった。今日がその第1回目である。聖書の朗読箇所・讃美歌・交読文などはそれぞれ相応しいところを選び、説教もそのつもりで準備した。通常の説教とは違って、いささか「講義」風になるかもしれないがご容赦頂きたい。
人間活動が活発になればなる程、地球の環境は汚染され、遂には破壊される。最も悪質な環境破壊は戦争だが、それは別として、火力発電所・工場・自動車、さらには各家庭から排出されるCO2が地球の温暖化を招いたとして、今大問題になっている。先週開かれた「北海道洞爺湖サミット」ではこれが最重要課題だった。
この問題は以前から知られていたが、それが具体的に明らかになったのは、ローマ・クラブの『成長の限界』という報告書によってである。
「ローマ・クラブ」とは、1968年にローマで創設された研究グループである。政治的中立を保証するために政治家は参加できないが、各分野から優れた専門家が集まり、創立以来一貫して「世界の危機」をテーマに学際的な研究を進めて来た。その成果の一つが『成長の限界』であって、これは1972年、ストックホルムでの第1回「国連環境会議」に合わせて発表され、全世界に対する警鐘となった。
すなわち、今後、世界の人口は急激に増加するが、食糧生産はそれに追いつかない。他方、工業化が進んで環境の汚染は許容限度を超える。それに加えて、原油・レアメタルなどの天然資源は底をつくだろう。こういった基本データを、マサチューセッツ工科大学(MIT)のコンピューターに入力して計算したところ、先進諸国がこのままの経済成長を続けるならば、地球は2000年を余り多く越えない時点で破局に直面するだろうという結論になった、というのである。
この報告書は短期間に30ヶ国語に翻訳され、全世界で一千万部以上売れた。それ程大きな衝撃を与えたのだ。私自身も、1974年頃、ドイツで仲間とこの本をテキストとして勉強したが、思わずゾッとした記憶がある。
この警告は真面目に聞かれただろうか? 1992年に第2回「国連環境会議」がリオデジャネイロで開かれたとき、ローマ・クラブは再び報告書を出した。過去20年間の世界の主な変化を詳しく調査・分析した上で書かれた『第1次地球革命』(田草川弘訳、朝日新聞社)がそれである。その中に、「人類は環境破壊という点で、取り返しのつかない重大な一線を越えてしまったようだ」(42頁)という言葉がある。これは、世界の将来についての不吉な診断である。
無論、この報告書は、この20年間に起こった喜ばしい変化にも注目している。例えば、冷戦が終結して米ソの愚かな核軍拡競争が終わったこと。EUが成立して「共生」の理想が一歩現実に近づいたこと。先進的な技術が開発されたこと、等々。
だが、その間に不安も増大した。少数民族の目覚めに伴って民族主義(ナショナリズム)が強まり、世界各地で紛争が頻発していること。人口の爆発的な増大や都市の拡大によって多くの困難が生じていること。地球環境の悪化に歯止めがかからなかったこと、などである。要するに、情況はそれ程良くなってはいないのだ。
中でも緊急な問題として、ローマ・クラブは次の五つを挙げている。
これらの問題を解決するのは容易ではない。アル・ゴアの映画『不都合な真実』(2006年)も、地球温暖化が決して楽観できない段階に達したことを伝えている。私たちの教会の役員会でも、「もう手遅れではないか」という意見が出たほどだ。「北海道洞爺湖サミット」の報道を見ても、この会議が地球の将来を明るくしたとはとても言えない。政治的な妥協の産物という印象が強いのである。
もう一度ローマ・クラブの報告書に注目したい。そこでは「人類に困難を克服する英知があれば、その未来は明るい。それがなければ、衰亡への苦しい道をゆっくりと辿るだけである」と言われている。これはその通りであろう。人類は今、岐路に立っている。破滅に向かうシナリオを避けるために、今、人類はあらゆる英知を集めてこの困難に立ち向かわねばならない。新しい技術。法的な規制。政治的な決断。いずれも必要であろう。しかし、最も大切なことは「価値観を変える」ことだ、とそれは指摘する。もっと具体的には、利己主義(エゴイズム)を克服することだ。
「エゴイズムのおかげで、人類は長い進歩の過程を生き抜いてきた。ほかの種を支配し、弱い種を蹴落としてきた。しかし、今の段階に至って、エゴイズムのこのような好ましくない一面は、人類の存続・上昇への推進力としての意味を失ってしまった。今大切なのは、自分の命だけを守ればよいという原始的エゴイズムから、いかにして脱却するかである」(『第1次地球革命』、167頁)。
この言葉に私は注目させられた。地球全体が未曾有の危機に直面している今、その困難を乗り越えようと努力している人々の心が、主イエスの愛の教えに接近している! これは、実に意味深い事実ではないだろうか。
同じことは、エーリッヒ・フロムの『生きるということ』(1977年、佐野訳、紀伊国屋書店)についても言える。この本の原題は、”TO HAVE OR TO BE” だ。科学・技術の力によって人類はあたかも全能になったかのように思い上がり、「無限の生産・・・無限の消費」を目指して突っ走るようになった。しかし、この「持つこと」(to have)への貪欲な執着は、却って人間本来の生活を破壊した。今や人類は「持つこと」への執着から解放されて、本来の「在りかた」(to be)を求めなければならない。これは根本的な変革を意味する。そしてフロムは、それを追い求めながら聖書に接近して行くのである。旧約の預言者たちや福音書のイエスだ。聖書だけではない。仏陀、中世の思想家マイスター・エックハルト、さらにはカール・マルクスやジクムント・フロイトといった先覚者たちも引き合いに出してフロムは、彼らはいずれも「在ること」を真剣に追求した、現代人はこの人たちの英知に学ばなければならない、と言う。
このように考えると、聖書に書いてあることは決して古臭くはなく、現代の最も大きな問題に対処するために有効だと言えるのではないか。
そこで、創世記1章28節に目を留めたい。ここには、神が人間を創造するとき、「生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と言われている。この聖句は、最近、評判が悪い。これは人間の傲慢な自然支配、あるいは自然収奪を許す根拠になったのではないかと批判される。それよりは、「山川草木悉皆成仏」を説く東洋の思想の方が「環境の世紀」には相応しい、というのである(梅原猛ほか)。
だが、創世記のこの箇所を、人間の自然収奪を正当化する根拠として解釈するようになったのは、近代以降である。第4世紀のアンブロシウスは「地を従わせよ」という言葉を、「我々の欲望を抑制せよ」という意味に解釈していたという。また、13世紀のアッシジのフランチェスコは、先ほど歌った讃美歌にあるように、すべての造られたものを兄弟姉妹として愛し、そのいのちを守ろうとした。彼は、人をエデンの園に住まわせ、「そこを耕し、守るようにされた」(創世記2章15節)という神の意志に従ったと言えるし、何よりも主イエスの愛に倣って生きていたのである。
創世記のこの言葉にはいくつかの解釈の可能性がある。問題はどのように解釈するか、ということである。主イエスは旧約聖書のすべての言葉を「愛」という一語に集約した。そのイエスに従って解釈するのが現代の教会の責任ではないか。