I
現在、世界中で食糧価格が高騰しています。原因は原油価格の高騰があらゆる経済活動に影響を与えていることと並んで、米国が石油の代替燃料としてバイオエタノールを用いることを打ち出したために、原料である玉蜀黍の価格が高騰したことが波及していると言われています。しかし玉蜀黍はもともと食糧です。食糧であるものを、自動車を走らせるための燃料に用いようとするために、貧しい人々が廉価な食糧を手に入れることができなくなるのであれば、それは金持ちの許されざるエゴイズムでしかありません。
先ほどお読みした聖書箇所の直前には、イエスが大麦パン五つと二匹の魚で、五千人の男性を含む大群衆を養ったという給食奇跡の物語が配置されています(ヨハネ6,1-13)。ヨハネ福音書に収録された多くの奇跡物語には、奇跡行為者イエスがこの世の必要を溢れんばかりに満たす、というモチーフが共通しています。病気治癒や死者の蘇生といった奇跡と並んで、結婚式で水を大量のぶどう酒に変えたり(ヨハネ2,1以下)、ガリラヤ湖の猟師に大漁をプレゼントしたりという具合です(ヨハネ21,2以下)。さらに今日の箇所の直前には、パンと魚の奇跡に続いて、夜中にガリラヤ湖を舟で渡っていた弟子たちのもとに、イエスが海上を歩いて追いついてきたという奇跡が語られます(ヨハネ6,16-21)。こうしたイエスの姿は、自らの力で圧倒的な物量のプレゼントを与え、超自然的な奇跡すら行うことのできる神々しい存在というイメージなのでしょう。
現代社会では、食糧の大量供給は世界的な食品産業が、そして高速大量輸送はとりわけ航空産業が担っています。イエス時代の人々が、現代の大都市のスーパーマーケットや空を行き交う巨大な飛行機を目の当たりにしたら何と言うでしょうか。これはイエスの奇跡よりもっとすごいと言うのではないでしょうか。
しかしイエスの奇跡と現代の輸送技術との間には、いくつか大きな違いがあります。一つは、イエスが貧しい人々の必要を満たすために食べ物を増やしたのに対して、現代の食品産業も投資ファンドも自らの利益のためにそうしていることです。食糧は投機の対象にされているのです。
二つ目の違いとして、ヨハネ福音書のイエスは、パンの奇跡につなげて「私が命のパンである」(35節)、「私は天から降って来たパンである」(40節)と述べることで、自分を通して食べ物を命の源である神と結び合わせますが、現代社会では、通常パンはもはや神との関連では理解されません。本来、日本語で「いただきます」という食前の言葉は、私たちの命を養うために犠牲になった別の命に対する感謝の言葉であったのではないでしょうか。食べることは命のやりとりでした。しかし現在のグルメブームにあるのは、そうした感謝の思いからはまるでかけ離れた、贅沢さへの果てしない欲望です。
今日は、ヨハネ福音書のテキストを手がかりに、食べ物とイエスと神の関係について考えてみましょう。この関連で、今日のテキストの最後には聖餐の主題も現われます。
II
ヨハネ福音書の主人公イエスの著しい特徴の一つに、やたらと話が長いことがあります。それはこの福音書が、〈イエス・キリストとは何者か〉という問いをめぐって、イエス伝承を手がかりに何度も省察を重ね、その結果を物語の主人公であるイエスの口に入れているからです。ヨハネ福音書におけるイエスの講話は一気呵成にできあがったものではなく、ある程度の時間をかけて成長していったと考えられています。それぞれの講話における論理展開もけっして一筋縄ではありません。むしろ主題的に緩やかに関連しながら、そのつど焦点を変えてなされる解釈を何度も積み重ねてゆくのが特徴です。今日のテキストにも、群集その他がイエスを誤解するさまが繰り返し描かれますが、これは実際にそのように誤解する人々がいたというより、適切なイエスの理解に到達する上で、逆に〈イエス・キリストをどう理解してはならないか〉というステップを踏んでゆくための文学的手法なのです。
III
今日のテキストでは、そうした誤解は合計三つあります。一つ目は「満腹」という誤解です(26-29節参照)。イエスは群集に向かって、「あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満足したからだ」(26節)と言います。パンを与えられた後、わざわざイエスの後を追ってきた群衆に対する言葉としては、いかにも冷たいという印象があります。しかし実際にはこの言葉は、食べ物(パン)の物量的な側面にのみ注目する奇跡理解を退けようとしているのです。つまりパンは単に〈腹のため〉にあるのではない。パンとは、それを与えて人の命を養う〈神を指し示すしるし〉なのだ、とヨハネ福音書のイエスは言いたいのです。イエスは「朽ちる食べ物のためではなく……永遠の命にまで留まる食べ物」のために働くこと(27節)、具体的には「神が遣わした者を信じる」(29節)ことを求めます。イエスという人格は、パンを通して神に至るための場所と理解されています。
第二の誤解は「しるしの要求」です(30-40節)。なるほど大量のパンが神を指し示すとしても、それがイエスの人格を証明するものであるかどうかが問われています。だからこそ群集は、かつてイスラエルの先祖が荒野でマンナを食べたのと同様の奇跡を行ってほしいという意味で、「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」(30節)とイエスに尋ねます。ある奇跡が誰かを証明すべきものとされるとき、両者の分離がその出発点です。奇跡とそれを行う人が別物であるとき初めて、奇跡はその人を証明することができます。しかしイエスは「私が命のパンである」(35節)と答えます。イエスは神からのプレゼントであり、パンを与えるイエスと与えられるパンは、命を豊かに与えるという働きにおいて一つです。これは、しるしの要求には答えられないという意味でもあります。しるしによる「証明」という視点からイエスを捉えようとしても、うまくゆかないのです。人格に対する疑念から出発しても、その人に備わった尊厳を捉えることはできません。私たちについても、それは同じです。だからこそイエスは、「あなたがたは私を見ているのに信じない」(36節)と言うのでしょう。
そして第三の誤解は、イエスの出生にまつわるものです。群衆は「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」(42節)と言います。つまりイエスは自然に生まれたふつうの人間なのだから――ヨハネ福音書は処女降誕のモチーフを知りません――、このような人物が「天から降ってきたパン」(41節)などではありえないというわけです。これは、〈イエスは永遠の神的ロゴスの受肉である〉(ヨハネ1,14)というヨハネ福音書の根本思想に対する反論です。これに対してイエスは、「私は天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と答えます(51節)。この発言は、イエスが人であることの否定ではありません。そうではなく、人間としてのイエスの人格が、神の命との「永遠の」つまり無限の交流の場として、信じるものたちに与えられているという理解の表明です。
「私が命のパンである」(35節)、「私は天から降って来たパンである」(40節)、「私は天から降って来た生きたパンである」(51節)――これら一連の発言は、どういう意味なのでしょうか。これらの発言は、一方では「天から降って来た命の(/生きた)パン」という表現によって、イエスの人格の真理を新しく発見させるものです。つまりパンを見れば、イエスの真の本質が理解できるというのです。すなわちパンが私たちの命を支えているのと同様に、イエスは神が私たちに与えた命のプレゼントであることが分かります。他方でこの発言は、私たちの日ごとの食事が、神の子イエスの派遣というできごとと決して無関係でないことを示唆します。パンというこの世の現実は、キリスト信仰を通して見るならば、神が人間を愛して、体も心も満たしてくださることの証言なのです。
聖餐についての言葉(51節後半-58節)は、多くの研究者たちによって、ヨハネ福音書が大教会に受け入れられるさいに付加された部分だろうと言われています。つまり〈イエスは神的ロゴスの受肉である〉という思想は、「私が命のパンである」というイエスの発言を介して聖餐式のパンとぶどう酒に結びつけられることで、広く受け入れられたのです。
IV
以上のようにヨハネ福音書の文言を辿ってきた私たちは、食べ物とイエスと神の関係について、こう言うことができると思います。すなわちこの世の食べ物(パン)はすべて、イエスのできごとを通して神に結びついていると。
私たちは食糧について、いとも簡単に「生産者」「消費者」という言葉を使いますが、本当の「生産者」は神です。そして私たちは食べ物の「購入者」や「消費者」ではありません。お金を払ったからといって食べ物を好きなように扱ってよいわけではありません。それは神が与える命の養いとして互いに分かち合うべきなのです。聖餐式は、そのことを経験するための象徴的な場です。イエスは、私を分かち合うことで食べ物を分かち合って共に生きよと教えているのだと思います。