この手紙の冒頭に筆者はペトロだと書いてあるが、どうもそれは事実と違うらしい。多くの学者は、1世紀の終わり頃、ある教会指導者が「イエスの使徒ペトロ」の権威を借りてこれを書いたのだろうと考えている。「著作権」という概念がまだ確立していなかった当時、こういうことは珍しくなかったのである。
しかし、この手紙の受取人は大体分かっている。1章1節に、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」とあるように、この手紙はトルコのアナトリア地方の信徒たちに宛てて書かれたのである。この地方一帯には、もともと多くの民族・文化・宗教が入り混って存在していた。その中に、キリスト教に改宗した人々がいた。この手紙の内容から判断すると、その多くは社会的地位が低い人々であったようだ。異教徒の夫をもつ婦人たちもいたし、貧しい若者や、奴隷もいた。これらの人々が小さなキリスト者共同体(教会)を形成して共に生きていたのである。彼らは迫害も受けた。とはいっても、ローマ帝国の官憲による大々的・組織的な迫害ではない。「村八分」とか「いじめ」の類であったかもしれない(→2章18節以下)。しかし、苦しいことに変わりはない。そのために悩んでいた信徒たちを励ますために、この手紙は書かれたようだ。
さて、今朝、私は特に2章1-5節について考えてみたい。
1節の「捨て去って」の原語(アポティテーミ)は、元来、古い衣服を「脱ぎ捨てる」ことを意味した。これは洗礼と関係がある。というのは、その頃、洗礼を受ける人は、水に入る前にそれまで着ていた着物を文字通り「脱ぎ捨てた」からである。そのことによって、それ以前の生活態度をキッパリと捨てる決意を示したのであった。この手紙の筆者が「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去りなさい」(1節)と言ったのは、そのことを指すのである。これが主イエス・キリストを信じて新しく生き始めた人々の「出発点」であった。
筆者は続けて言う。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(2節)。この言い方は、彼らが洗礼を受けたばかりの信徒たちであることを暗示している。この人たちに向かって彼は言ったのだ。新生児が母乳をゴクゴク飲んで大きくなるように、あなたがたも霊的な養分、すなわち、主イエスが示された愛の真理を一心に吸収して「成長し、救われるように」(3節)なりなさい。いわば「初心、忘るべからず」と言いたかったのであろう。
私は1947年12月22日に八戸柏崎教会で洗礼を受けた。先日召された神尾閑子さんも同年同日に上原教会で赤岩先生から洗礼を受けたと聞く。当時は、戦後の虚脱状態から漸く立ち直り、このように新しく生き始めた若者が大勢いたのである。
受洗の決心をしたとき、私は中学5年生だった。しかし、日曜日なのに受験準備か何かで学校へ行かなければならず、礼拝の席上で他の何人かの志願者と一緒に受洗することができない。困って牧師に相談すると、「では、朝7時に来なさい」と言われた。こうして、先生のお子さんたちと一緒に早朝、洗礼を受けることになった。役員の方々も数人同席してくれた。吹雪の朝で、火の気の全くない会堂には割れたガラス窓から雪が舞い込んでいた。式が進み、いざ洗礼という段になって牧師が洗礼盤を覆っていた白い布を取りのけると、直前に汲んできたばかりの水がガチガチに凍っていた。先生は驚かれたが、両手をすり合わせたり息を吹きかけたりして暖め、その手で氷を擦って、辛うじて掬い取った二、三滴の水を私の額につけた。「村上伸、父と子と聖霊との御名によってバプテスマを授ける」。この瞬間を、私は忘れることができない。
偉大な宗教改革者マルチン・ルターは、何か苦しいことがあると机の上に「私は洗礼を受けている」(baptizatus sum)と書き殴っていたそうだが、私はその後、何かある度にあの洗礼式の場面を、あの氷の冷たさを思い出すのである。私にとって「初心、忘るべからず」とはそのことであった。
さて、著者は4節で「主のもとに来なさい」と命じている。私たちは繰り返し繰り返し、主イエスのもとに行かなければならない。何故か?「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」(3節)というのがその理由である。主イエスの愛と深い恵み!それを飲むことによって私たちは成長し、救われる。そのことを私たちは既に味わった筈ではないか。
だが、それ以上に決定的な理由は4節ではないだろうか。「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」。主イエスは人々から見捨てられ、最も信頼する弟子たちからも見捨てられ、最後には神からさえも見捨てられて、絶対の孤独の中で、十字架上に死んで行かれた。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。だが、その主イエスが、死者の中から甦らせられて生命の力の源となった。イエスは、私たちを「霊的な家に造り上げる」(5節)ために、つまり、教会という霊的な共同体を築き上げるために選ばれた、尊い、生きた礎石となられたのである。この礎石の上に、私たちは石を積み上げる作業を継続する。
6-8節は論理がやや複雑になるので飛び越え、直接9節に行きたい。不当な苦しみを受けている信徒たちの小さな群れが、「選ばれた民」・「神のものとなった民」と呼ばれる! このように恐れと不安を希望に変えるのが、主イエスの力である。それを筆者は、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業」と呼んだのだ。暗闇から光へ。これは、私たちにも約束されている。このことは確実である。