2008.6.1

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「キリスト者の自由」

村上 伸

イザヤ書55,1-3;1コリント9,19-23

 今日の説教テキストは、内容から見ると8章「偶像に供えられた肉」というところに続いている。だから、今日は9章1-18節には触れずに、8章の内容をざっと紹介することから始めたい。

 当時、コリントの町にはさまざまな異教の神殿があって、毎日、神々のために犠牲の動物が捧げられていた。祭儀が終わると、それら犠牲に捧げられた動物の肉の中から先ず祭司が自分たちの分を取り、残りは市内のマーケットに卸されて市民に販売された。神殿直営のレストランもあったという。

 この肉について、コリントの教会には二通りの考え方があった。一つは、「異教の神々に犠牲として捧げられた肉を食べることは偶像礼拝になりはしないか」と恐れてそれを避けるというもの。もう一つは、「そもそも異教の神々など存在せず、唯一の神がおられるだけだから、神々に供えられたと称する肉を食べても別に偶像礼拝には当たらない」という考え方である。この人たちは平気でその肉を食べた。

 この両者の間に反感や対立が生じ、パウロも無視できなくなって、この問題についてどう考えるべきか、自分の考えを示した。それが8章なのである。

 4節で彼は、「世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もないことを、わたしたちは知っています」と言っている。パウロ自身はこの知識に達していたから、肉を食べても一向構わないと考えていた。「しかし」と彼は続ける。「この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」(7節)。

 このような人たちのことを、パウロは「弱い人」と呼んだ。周囲の異教世界の影響から中々抜けられず、しっかりしたキリスト教信仰にはまだ達していない人、という意味であろう。しかし、どんなに弱い人であっても、そのために「キリストが死んでくださった」(11節)兄弟なのだ、とパウロは言う。この言葉について、私には忘れられない思い出がある。

 神学生の頃、西片町教会の祈祷会で勧めの言葉を語るように求められたことがある。準備を整えて責任を果たしたが、その中でつい、「この世の人間どもは…」という言葉を使った。話が終わって祈りに移るとき、鈴木正久牧師が厳しい表情でそのことをたしなめられた。「どんな人でも、そのためにキリストが死んでくださった尊い人間なのだ。<この世の人間ども>などと軽蔑するような言葉を使ってはいけない」というのである。この先生の言葉がパウロから来ていることは言うまでもない。

 本題に戻る。パウロは続けて言う。「彼らの弱い良心を傷つけるのはキリストに対して罪を犯すこと」(12節)にほかならない。「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を食べません」(13節)。これが、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(8章1節)という彼の信念の、実践的な結論であった。そして、これを受けているのが、今日の説教テキスト、特に19節「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」という言葉なのである。

 「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8章32節)と言われているように、強い者・知識に達した者は自由を獲得する。だが、この自由を、弱い者を躓かせるために用いてはならない。また、知識に達した人はプライドを持ってもいいが、その誇りを、知識に達していない人を軽蔑するためにひけらかしてはならない。「自分は何か知っていると[高ぶって]思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(8章2節)というのは本当だ。強い者の自由、知識に達した者の自由は、「自らを低くして他者に仕える」こともできる自由でなければならない。

このパウロの考え方を二つの美しい命題にまとめたのが、マルチン・ルターであった。『キリスト者の自由』(徳善義和訳)という名著の冒頭に、彼は先ず、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない」と書いた。そして直ちにそれに続けて、あたかも一息で言うようにして、こう続けている。「キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」

 この二つの命題は、一見、矛盾するように見える。だが、そうではない。この二つは自由の両面であって、真の自由はどちらを欠いても成り立たないのである。そして、それは、主イエスが自らの生涯を通じて私たちに示されたことに他ならない。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2章6-8節)。

 最後に、パウロはこう言う。「わたしは…ユダヤ人に対してはユダヤ人のように…律法に支配されている人に対しては律法に支配されている人のように、律法を持たない人に対しては律法を持たない人のように、…弱い人に対しては弱い人のように、…すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(20-23節)。

 これは、主体性がないためにだれにでも迎合する、ということとは違う。真の主体性・真の自由は、愛の故に自らを低くし、僕のようになって相手に仕えることさえ可能にするものなのである。



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