先週、私たちは「聖霊降臨祭」を祝った。聖霊の降臨によって「父」・「子」・「聖霊」の三者が揃ったので、教会暦は今日を「三位一体主日」と定めている。今日の説教テキストに『コリント人への手紙二』13章の結びのところが選ばれたのも、13節の「主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」という祝祷が三位一体的だという理由によるのであろう。
ところで「三位一体」とは何か? よく質問を受けるのだが、答えるのも簡単ではない。今日はその辺を整理しながら話を進めたい。
先ず、「三位一体」(Trinity)という言葉は元々聖書にはなかった、ということを指摘しておきたい。第3世紀の終わりごろから、「キリストは神か人か」という問題をめぐってローマ帝国内で神学論争が延々と続いた。いわゆる「キリスト論論争」である。その過程で、「神はただひとりであるが、三つの位格(ペルソナ)を有する」という考え方が次第に定着した。これが「三位一体」である。これは、元々聖書にはなかったものだが、皇帝によって召集された何度かの公会議を経て、正統派の教会の最も重要な教義として決定された。この点が、後々まで人々の心にひっかかっていたのである。
当時、アレイオス(又はアリウス)という思想家がいた。彼は三位一体論を批判したために、紆余曲折の末、最後は正統派の教会から破門されて、不遇の内に生涯を終わった。だが、彼の思想は時を越えて生き続けたのである。
16世紀には、スペイン生まれの哲学者で医者でもあったミシェル・セルヴェという人物が、三位一体の教義は聖書のどこにもないという理由から『三位一体論の誤謬について』(1531年)という本を書いた。そのために、カトリック教会からもプロテスタント教会からも追われる身となり、1553年には遂に捕らえられ、異端宣告を受けてジュネーブ郊外の丘で火刑に処せられた。
19世紀の「ユニテリアン派」もこの流れを汲んでいる。この派は、神の唯一性を強調して三位一体論を否定し、イエスは神ではなく愛に生きた人間であったと主張した。のちにアメリカで勢力を広げ、一時はハーヴァード大学を拠点として活発な活動を展開した。人類愛を唱え、社会改革運動に熱心であったといわれる。日本でこの立場に立って活動した人に、初期の指導的な社会主義者・安部磯雄がいる。
このように、三位一体論に対して批判的な人は跡を絶たない。とくにユダヤ教徒は、唯一の超越的な神を厳格に信じるが故に、三位一体は結局多神教につながる、という理由でキリスト教を厳しく批判する。
さて、三位一体という考えが聖書にないと簡単に決めつけてもいいものだろうか。確かに、「三位一体」という言葉はないかもしれない。しかし、考え方としては、それは聖書の中に存在すると言えるのではないだろうか。
先ほど出エジプト記3章を朗読した。その中に、神が「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)と自ら名乗るところがある。この「わたしはある。わたしはある」という名前の意味を、ユダヤ教の優れた哲学者マルチン・ブーバーは、「神は、人間がどんな状況にあろうとも、そこに共にいる」と解釈した。
神はモーセに向かって言われたではないか。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」(7節)と。神は、民を苦難から救うために、その真只中にモーセを遣わす。そして、任務の重さにたじろぐモーセに向かって、「わたしは必ずあなたと共にいる」(12節)と約束した。「わたしはある。わたしはある」というのはそういう意味だ、とブーバーは言うのである。
神は唯一の神である。また、人間の思いを高く超えた超越的な神である。だが、人間の苦しみを遥かな高みから涼しい顔で見下ろしているだけの神ではない。彼の民の苦しみをつぶさに見、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知り、そこへ降りて行き、彼らと共にいて、彼らを救う神である。そのような神が存在するということを告げたのはモーセであった。だが、このことを、あたかも神自身がそこに存在するかのように、最も深い意味で我々人間に知らせたのはイエスではなかったか。だとすれば、イエスを「子なる神」と信じた初代のキリスト教徒たちの信仰には根拠がある。
ドイツの神学者B.クラッパートは、この30年来、ユダヤ教との対話を精力的に進めてきた人物だが、この「子なる神」を、「イエスにおいて、この世で苦しんでいる人々の傍に行き、その中に住み給う神」と表現した。ユダヤ教神学者たちも、「それなら分かる」と言ったという。
三位一体という言葉は、聖書の中にはないかもしれない。だが、「わたしはある。わたしはある」と名乗って自らを啓示する唯一の神は、イエスにおいて苦しむ人々と共に生き・一人ひとりを愛する神(子なる神)であり、また、我々の心の中に入ってきて内側から動かし、そのことを信じるように導く神(聖霊なる神)である。
パウロは今日の箇所の最後のところで、「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」(11節)と勧めた。
三位一体の神とは、この「愛と平和の神」に他ならないのである。