2008.4.13

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「天地の主なる神」

村上 伸

申命記32,1-6;使徒言行録17,22-34

パウロは紀元50年頃、第2次伝道旅行の途中、テサロニケ、フィリピ、べレアを経てアテネに到着した。古代ギリシャ文明を代表する町である。アクロポリス(城砦)と呼ばれる小高い丘の上に守護神アテナを祭る神殿(パルテノン)があり、町はこれを中心に広がっていた。

私はかつてドイツ教会の世界宣教部で仕事をしていたが、1978年に任期を終えて帰国するとき、途中でドイツ教会が関係するいくつかの活動拠点に立ち寄って欲しいと要請された。そこで、ヨルダンのアンマン、インドのボンベイとバンガロール、シンガポール、インドネシアではジャカルタとジョクジャカルタ、バリ島などを歴訪したのだが、その長い旅の最初の寄港地がアテネだった。特に仕事と関係はなかったが、せっかくそこを経由するのだし、世界史で極めて重要な役割を果たしたこの町を素通りするのはいかにも勿体ないと思い、アテネに2,3日滞在する予定を組んだのである。着陸直前、飛行機の窓からアクロポリスの丘が見え、幻想的にライトアップされたパルテノン神殿が望まれた。もう30年前のことだが、その時の心のときめきは今も忘れることができない。

使徒言行録17章によると、パウロは正にそこにいたのである。今日の箇所の直前に、彼はアテネに滞在していた間、「会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた」17節)とある。「広場」(アゴラ)というのは、昔、ソクラテスなども教えていた場所で、いわばアテネの人々の知的生活の中心であった。パウロはそこへ行ったのだ。そして、知識人たち、つまり「エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者」18節)と対話した。

「宣教」とは、かつて欧米先進諸国の教会がやったように自分たちの信仰を押しつけることではない。相手の考えも重んじてそれに耳を傾けることからから始まる。その上で、自分が信じていることも率直に語る。宣教は「対話」である。パウロはそれをしようとした、と言えるだろう。

そうは言っても相手がいることだから、うまく行くとは限らない。使徒言行録の著者ルカは、「すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた」21節)と皮肉っているが、アテネにおけるパウロの対話相手は、真剣に人生や信仰の問題を考えていたかどうか。都会のインテリらしく軽薄な青年も多かったのではないか。実際、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」18節)と、パウロを鼻先であしらうような人もいた。しかし、中には興味を持った人々もいて、「彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行った」19節)。つまり、少数の人々は「対話」の継続を望んだのである。

「アレオパゴス」というのはアクロポリスの北西にある低い丘で、そこには評議所があった。パウロは、その「アレオパゴスの真ん中に立って」22節)人々に語りかけたという。それが22節以下の有名な演説である。現在、その場所にはこの演説の全文をギリシャ語で刻んだ大きな石碑が立っている。

この演説で、パウロは先ず、「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」22節)と語りかけた。だが、16節には、彼は「この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した」とある。もしもそのほうが本音だとすれば、これは「お世辞」のようにも聞こえる。しかし、パウロは心にもない「お上手」を言うような人ではなかった。異文化・他宗教の人々と接触して、彼は何とかして対話の接点を見つけようとしたのではないだろうか。少し後の27節では、紀元前270年ごろのギリシャ詩人アラトスの詩から、「我らは神の中に生き、動き、存在する」という言葉を引用しているが、これも接点を見出そうとする努力の現われだったのだろう。このように、パウロは対話から宣教を始めようとしたのである。

さて、23節に注目しよう。ここでパウロは、「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇を見つけた」と言っている。この辺りから、パウロ自身の信仰が前面に出て来る。つまり、彼はその「知られざる神」を、自らが信ずる神と関連づけたのである。その神は、「世界とその中の万物とを造られた神」であり、「天地の主」24節)であるから、「手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません」25節)と述べる。壮麗な神殿や形式的な祭儀をやんわりと批判して、この世界そのものが神の住まいなのだ、と言ったのである。その上で、「神は、一人の人からすべての民族を作り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」26-27節)と続け、「神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」27節)と結論づけた。先ほども述べたが、パウロがギリシャの優れた詩人の詩句を引用したのはここである。このような語り口は、ギリシャの知識人にとっても、そんなに受け容れ難いものではなかったであろう。

このように、パウロは相手に気を遣いながら、あからさまにイエスの名を持ち出したりはせず、「対話」的に語って来た。「先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになった」(31節)という言い方もその一例だろう。

しかし、今や、彼は決定的に重要なことを語らねばならない。仮に相手にとって躓きになるようなことであっても、宣教する者はそれを避けることはできない。宣教は「対話」から始まるが、最後は相手に決断を迫るような言葉を語らねばならない。この場合、それは「キリストの復活」であった。「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになりました」31節)。

果たして、これは人々の間に拒否反応を惹き起こした。イエス・キリストの復活という信仰は躓きの石なのである。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」32節)とある通りである。

これを理由に、パウロのアテネ伝道は失敗であった、と言う人がいる。だが、そうだろうか? そもそも「信じる」ということは、「論理的に説明されてすんなり納得する」というようなことではない。それまでは躓きの石であったようなことでも、ある時、「一線を越える」ようにして信じられる。それを聖書は「聖霊の働き」と言う。それによって、人間の思いを超えた出来事が起こり得るのである。

ルカは、「信仰に入った人も、何人かいた」34節)と報告しているが、一人でも二人でもそういう人がいる限り、そこでの伝道は「失敗」とは言えないのではないだろうか。


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