復活後第1主日には、古来、”Quasimodogeniti”(生まれたばかりのように)という名がつけられている。この日の礼拝の最初に読まれる聖句「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(ペトロ一 2章2節)に因んだのである。
キリストの復活が信じられるとき、私たちは新しく生まれる。生まれたばかりの乳飲み子のようになる。先週も引用した八木重吉の詩のように、「キリスト / われによみがえれば / よみがえりにあたいするもの / すべていのちをふきかえしゆくなり」。
今日の説教テキスト:ペトロ一 1章3節以下が、キリストの復活によって私たちには「生き生きとした希望」が与えられると言っているのも同じ意味であろう。
ところで、この手紙は、1章1節によると、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地(現在のトルコ西部)に「離散して仮住まいをしている」キリスト者たちに宛てて書かれたという。「離散」とか「仮住まい」とか言われているからには、彼らが安らかで豊かな暮らしを楽しんでいたとは考えられない。むしろ逆であって、「いろいろな試練に悩まねばならない」(6節)とあるように、彼らはいろいろな形で苦しい目に遭っていた。もっとも、命に関わるような迫害ではなく、異教徒から「悪人呼ばわり」(2章12節)されるという程度のことだったかもしれない。いずれにせよ、この手紙には、そのような苦しみを示す表現が多く見出される。「不当な苦しみ」(2章19節)、「義のために苦しみを受ける」(3章14節)、「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練」(4章12節)等々。
こうした試練に遭っている同信の仲間に対して、「使徒ペトロ」(1節)がこの手紙を書いたとされているが、実は書いたのはペトロ本人ではなく、他の有力な指導者がペトロの名を借りて書いたのだと考えられている。しかし、誰であっても、教会という共同体の中で、苦しむ仲間を放っておいていいわけはない。
この手紙を書いた人は、自分たちはあなたがたのことを心にかけている、あなたがたは決して独りぼっちではない、ということを伝えたかったのだ。―― あなたがたは、今は離散の難民のように苦しい目に遭っているかもしれないが、「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、”霊”によって聖なる者とされ・・・選ばれた」人たちなのだ。そのことを疑わずにいて欲しい。自分たちは、「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」(2節)祈っている。
さらに、3-4節では、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」と励ましている。教会とは、このような「祈りと互いの配慮の共同体」に他ならない。
ボンヘッファーも、こうした「祈りの共同体」の中で生きた人であった。ヒトラーの暴虐に抵抗して捕らえられ、約2年間、獄中で暮らしたが、その彼を支えたものは家族や友人、また、抵抗運動の仲間たちの祈りであった。しかし、その彼が獄中で、同じく囚われている受刑者たちのために、その人たちに代わって、朝に夕に祈りを捧げていたことが知られている。朝の祈りというのがある。
「神よ、一日のはじめにあなたに呼びかけます。私を助けて、祈れるように、そして私の思いをあなたに向かって集められるようにして下さい。私には、ひとりではそれができませんから。私のうちは暗い。しかし、あなたのみもとには光があります。私はひとりぼっちです。しかしあなたは、私をお見捨てになりません。私は臆しています。しかし、あなたのみもとには助けがあります。私は動揺しています。しかし、あなたのみもとには平安があります。私の中には苦い苦しみがありますが、あなたのみもとには忍耐があります。私にはあなたの道が理解できません。しかしあなたは、私のための道をご存知です」。
祈りはこう続く。「主イエス・キリストよ。あなたは貧しくあられました。そして私と同じようにみじめであり、囚えられ、見捨てられました。あなたは人間のあらゆる困窮を知っておられます。あなたは、私のそばにいて下さいます。たとえ誰一人私のそばにいてくれなくても、あなたは私をお忘れにならず、私を探して下さいます。・・・聖霊よ、私に信仰を与えて下さい。絶望と病的欲望と悪徳から私を救う信仰を。神と人々に対する愛を与えて下さい。あらゆる憎しみと悪意を根絶する愛を。希望を与えて下さい。私を恐れと無気力から解放する希望を」(『獄中書簡集』、161頁)。
1945年4月9日、彼は6名の同志たちと共にフロッセンビュルクの強制収容所で処刑された。絞首台に向かう前に、捕虜としてその場に居合わせたイギリス軍の情報将校ペイン・ベストに、常に祈りをもって支えてくれたチチェスターの主教ベルへの最後の挨拶を託した。そして、微笑と共に語られた彼の最後の言葉は、「これが最後です。私にとってはいのちの始まりです」というものであった。
いのちの始まり! これから死ぬというときに、彼はどうしてこんなことを言えたのだろうか? これは、復活し・私たちに先んじて進んで行かれる主イエス・キリストへの信仰から出た言葉である。復活が信じられるとき、地上の命の最後、つまり死も、新しい命の始まりに変わり得る。祈りの共同体の中心にあるのは、この信仰である。