2008.3.23

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「キリストの復活」

村上 伸

ホセア書6,1-3;コリント一 15,1-11

「復活」はキリスト教信仰の中心であるが、最初の弟子たちも中々信じることができなかった位だから、とくに現代人にとっては躓きの石である。一体、「復活」とはどのような出来事だったのだろうか? 今日は、コリント一 15,1-11に基づいて、そのことを考えたいと思う。

今日の箇所は、イエスの復活に関する叙述としては最も古い層のものだと言われている。もちろん、どの福音書にも、「受苦物語」に続いて詳細な「復活物語」がある。だが、最も早く書かれたマルコでも70年頃、マタイやルカは80年代、ヨハネはそれよりもずっと後に書かれたものだから、福音書の「復活物語」にはその後の教会内外の事情を反映するさまざまな要素が付け加わっている。内容もかなり「膨らまされた」ものとなった。むろん、無責任な「作り話」というわけではなく、それなりの真実を表現しているのだが、「イエスの復活とはそもそもどのような出来事であったのか」ということを考えるためには、必ずしも適していない。

その点、今日のテキストは福音書の復活物語よりもずっと古く、元々の出来事を暗示するような言葉で書かれている。中でも重要なのは、3節後半-6節前半の、「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに現れました」というところであろう。これは、パウロ自身の言葉ではない。パウロが「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(3節前半)と言っているように、彼以前の時代から口頭で伝えられ、彼もまたそれを受けた伝承なのである。極めて簡潔、しかも詩的な表現を用いて語られている。これが、新約聖書の中で、復活に関する最も古い資料なのである。

さて、この伝承では、「復活した」(4節)という言葉が、5節以下では直ぐに「現れた」(オフセー)と言い換えられ、それが何度も繰り返される。つまり、「復活した」とは、「現れた」ということに他ならない。

だが、一体「現れた」とはどういうことなのだろうか?

ある人々は、「幻」、あるいは「幻影」のことではないかと考える。主イエスは十字架上で死んだが、三日目に幻のような形で弟子たちの前に再び姿を現したということではないか、というのである。弟子たちが恐れのために鍵をかけて引きこもっていた部屋の中へ、突然「イエスが来て真ん中に立った」というヨハネ福音書の話(20章19節、及び26節)などを読むと、確かに「幻」と言うほかはない。

しかし、U・ヴィルケンスというドイツの神学者は、「現れた」というのは単に「幻」として姿を見せたということではない、もっと積極的に、「イエスの事柄は先へ進む」という意味だ、と言っている。私は、これに共感する。

「イエスの事柄」というのは耳慣れない表現かもしれない。「事柄」というドイツ語(Sache)は、イエスが生涯をかけて取り組んだ課題や関心事を意味している。彼が出会った一人ひとりの人に注いだ愛。彼がご自分の命をかけて救おうとされたこの世界のための祈り。この「イエスの事柄」は、彼の死をもって終わりはしなかった。それは先へ先へと進む。弟子たちや、その他の多くの人々を動かし、彼らの高い志と、優しい愛の業と、たゆまぬ祈りの中にいのちを伝えながら、先へ先へと進んで行く。

八木重吉の次の詩は、そのことを表現しているのではないか。「キリストわれによみがえれば よみがえりにあたいするもの すべていのちをふきかえしゆくなり うらぶれはてしわれなりしかど あたいなきすぎこしかたにはあらじとおもう」。

キリストが復活したということは、彼の命が他ならぬ私の中に受け継がれるということである。キリストが私に甦る! そうすると、私の中で甦りに値するもの、つまり、志や愛や祈りは、すべていのちを吹き返していく。どんなに不幸で惨めな過去を持っていたとしても、私はもうその過去に縛られることはない。私の中に甦ったキリストと共に、先へ向かって進んでいく。

キリストの復活とは、このことに違いない。



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