2008.2.24

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「真実を語る」

村上 伸

ゼカリヤ書8,14-17;エフェソ4,25-32

 今日の箇所では、先ず「捨てる」という言葉に注目したい。この表現は、二回(25節31節)出るだけだが、内容から見ると、パウロは殆んどすべての節で何かを「捨てる」ことについて語っているからである。といっても、「廃棄物処理」のことではない。「生きる姿勢」の問題である。私たちの毎日の生活の中には、多くの「捨てなければならないもの」がある。パウロは、このことを指摘しているのである。

彼は、先ず25節「偽りを捨てよ」と言う。偽りを捨てて、「それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」。これが大原則だ。いくつかの具体的な勧めがそれに続く。26節「日が暮れるまで怒ったままでいてはなりません」。これは、執念深い情念を捨てなさい、ということであろう。そして、32節にあるように、「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合う」のである。次に28節でパウロは、「盗みを働いた者は、今からは盗んではなりません」と命じている。盗みに限らず、今まで反社会的な生き方をしていたとするならばそれを捨てなさい、ということである。そして、29節「悪い言葉を一切口にしてはなりません」。悪い言葉とは、聞く人のプラスには決してならず、むしろ、ただ傷つけるだけの言葉のことである。すなわち、31節にあるような、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり」だ。そういう言葉は、「一切の悪意と一緒に捨て」なければならない。これらの勧告は、結局、初めに述べた「偽りを捨てそれぞれ隣人に対して真実を語りなさい」という大原則に戻る。

 

だが、これは口で言うほど簡単なことではない。ボンヘッファーは獄中で、「真実を語るとはどういうことか」という小論文を書いている。今日のテーマと重なるので、それについて紹介しておきたい。

彼は1943年の4月3日にベルリンの両親の家で逮捕され、そのままテーゲルの軍刑務所に収監されたのだが、それから8ヶ月ほど経ってから彼はこの論文を書いた。短いが注目すべき文章だ。内容は、おおよそ次の通りである。

――われわれは言葉を覚えると直ぐ、両親から「嘘をついてはいけない」と教えられる。これは、特に子どもが守るべき家庭生活のルールだ。しかし、同じことを子どもが両親に要求したりはしない。このことが既に暗示しているように、「真実を語る」ということは、その人の立つ場所・担っている責任によって、その都度異なった意味を持ってくる。この人間関係を正しく認識した上でなければ、単純に「真実を語る」などと言えない。

ボンヘッファーは、ここで一つの有名な実例を持ち出している。ある子どもが学校で、教師から、しかも級友たちの前で、「君のお父さんは、いつも酔っ払って家に帰ると聞いたが、それは本当かね?」と訊かれた。それは事実だった。しかし、その生徒は、「いいえ、そんなことはありません」と答えた。これが「嘘」だと単純に非難することができるだろうか? 恐らくその生徒の心の中には、教師がこういう形で家庭の問題に不当に介入して来たことに抗議したい気持ちがあったのであろう。しかし、それをうまく言葉で表現することができなかったので、ただ「いいえ」と答えたのだろう、とボンヘッファーは推測する。

この場合は、教師の質問のほうが問題なのである。事実を言い当てている限り、その教師が「間違っていた」とは言えないけれども、神がイエスを通して示された愛の真実に照らして見るならば、この教師が言ったことは間違っている、とボンヘッファーは明言する。彼が「真実を語った」とは言えない、というのである。

実は、この論文を書いたとき、彼は毎日、ゲシュタポ(国家秘密警察)の取調べを受けながら似たような経験を重ねていた。むろん、ゲシュタポは「反ヒトラー陰謀」の全貌を知るために追求していたわけだから、取調べは厳しかった。まだ捕まっていない同志たちのことも、執拗に聞かれる。だが、たとえ知っていたとしても、仲間を守るためには「知らない」と嘘をつかなければならない。

このことは、地下抵抗運動に身を投じたとき既に覚悟していた筈なのだが、こういう「嘘の多い生活」に、彼は正直なところ、中々なじめなかったらしい。投獄される直前、『十年後』というエッセーを書いて親しい友人たちに配ったことがあるが、その中で彼は、「われわれはすっかりすれっからしになってしまった。われわれは偽装術やあいまいな言い方を習得した・・・それでもまだ、われわれは役に立つのだろうか」と嘆いている。やむを得ないこととはいえ、彼の心中にはこうした葛藤があったのである。その中で、彼はこの論文を書いたのであり、これを通して私たちは、「真実を語る」ということの切実な意味を学ぶことができる。

そこで、もう一度問いたい。「真実を語る」とはどういうことであろうか?

25節の後半に注目しよう。「わたしたちは、互いに体の一部なのです」。これはパウロの他の手紙にも出て来る思想である。代表的なのは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(コリント一 12章26節)という言葉であろう。これは、差し当たりは「教会」について言われた言葉だが、人類全体にも当てはまる。

「共生」! これ以外に人類には生き残る道がない。これこそ、神が造られ、そしてその独り子を賜ったほどに愛し給うたこの世界の「究極の真実」である。私たちが語らねばならない「真実」とは、この「究極の真実」を証しし・仕える言葉である。



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