2008.2.17

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「苦難は忍耐を生む」

村上 伸

イザヤ書53,1-5;ローマ 5,1-5

 「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」(1節)。これは、ホッとするような美しい文章である。このような言葉を発することのできる人は、幸いである。

 かつてのパウロはそうではなかった。例えば『フィリピの信徒への手紙』に自ら書いているように、「生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身でヘブライ人の中のヘブライ人」(3章5節)と自らの出自を鼻にかけていたばかりか、律法の命じることを完璧に実行することによって自分の義を達成することができたと自惚れていた。「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(同3章6節)。

 だが、そのように生きていた頃の彼は、幸せだったろうか?

 否、その頃の彼は、いわば「律法原理主義」ともいうべき立場に凝り固まっており、それ以外の考え方・生き方をする人たちを認めることができず、彼の心の中には、許し難い人々を非難・攻撃する言葉が絶えず渦を巻いていた。気持ちもささくれ立っていたであろう。このような精神状態にある人が幸せであるはずがない。

 熱心なクリスチャンの中には、「幸せであるか否かは問題ではない、信仰生活においては、ただ神の前で義とされるかどうかが問題なのであり、人間的な幸せは問題にならない」と考える人もいるかもしれない。

 だが、イエスは確かに「幸せ」について語ったのである。このことを私たちは忘れてはならない。「心の貧しい人々は、幸いである…」(マタイ5章3節以下)。それは単にこの世的な「幸福」ではないかもしれないが、彼がすべての人に最も深い意味での人生の「幸せ」を味わってほしいと願っていたことは疑いようがない。彼はまた、その「幸せ」は互いに愛し合うことの中にこそあると教えた。自らの義を頑固に主張して他者を裁く人は、このような幸せとは無縁である。

 先週、和田さんの結婚式に際して、私は吉野弘の「祝婚歌」という詩を引用した。

 「二人が睦まじくいるためには/愚かでいるほうがいい/立派すぎないほうがいい/立派すぎることは/長持ちしないことだと気付いているほうがいい/完璧をめざさないほうがいい/完璧なんて不自然なことだと/うそぶいているほうがいい/二人のうちどちらかが/ふざけているほうがいい/ずっこけているほうがいい/互いに非難することがあっても/非難できる資格が自分にあったかどうか/あとで/疑わしくなるほうがいい/正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気付いているほうがいい/立派でありたいとか/正しくありたいとかいう/無理な緊張には/色目を使わず/ゆったり ゆたかに/光を浴びているほうがいい/健康で 風に吹かれながら/生きていることのなつかしさに/ふと 胸が熱くなる/そんな日があってもいい/そして/なぜ胸が熱くなるか/黙っていても/二人にはわかるのであってほしい」。

 この美しい詩は、結婚する二人だけではなく、すべての人に贈られたものだと私は思う。吉野弘という詩人については、1926年山形県酒田の生まれで、戦後3年ほどは胸を病んで療養生活をしていたということ以外、私はほとんど知らないが、もしかすると、この人は聖書の信仰をよく分かっていたのではないか。

 特に、終わりの方の、「立派でありたいとか/正しくありたいとかいう/無理な緊張には/色目を使わず/ゆったり ゆたかに/光を浴びているほうがいい/健康で 風に吹かれながら/生きていることのなつかしさに/ふと 胸が熱くなる/そんな日があってもいい」という一節は、パウロの「信仰義認」の考えと通じるものだ。

 人は、無理に「自分の正しい行為によって義を達成しよう」などと考えなくてもいい。弱いまま、罪あるままで、恵み深い神の前にわが身をさらけ出し、すべての罪を赦すと約束して下さる神の前で、「ゆったり ゆたかに [赦しの]光を浴び」、恵みの優しい「風に吹かれながら 生きていることのなつかしさに ふと胸が熱くなる」。そんな日を過ごしてもいいのだ。

 そのとき、人は解放される。今日の説教の最初に引用した1節の言葉は、そのような解放の喜びの歌なのである。解放された人は、もはや自分で自己正当化を図る必要はない。自らの出自とか、善き業を誇ることもない。ただ、「神の栄光にあずかる希望を誇りとする」(2節)、とパウロは言う。そればかりではない。「苦難をも誇りとする」(3節)。なぜなら、解放された人は、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(4節)ことを知っているからである。これは、単なる美辞麗句ではない。ありとあらゆる苦難を経験したパウロの言葉であるだけに重みがある。

 だが、それが真理であることを証しするものは、結局のところ神の愛に他ならない。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(5節)。そして、この神の愛は、正に主イエスの苦しみにおいて示されたのであった。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示された」(8節)。

 それ故に、私たちは苦難を人生に付けられたマイナス符号とは考えない。むしろ、忍耐・練達・希望を生む大きなプラスとして誇るのである。



礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる