2008.2.10

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「誘惑」

廣石 望

ヨブ記 1,1-11マタイ福音書 4,1-11

I

今日は受難節の最初の主日です。『日々の聖句(ローズンゲン)』は、今日のためのテキストとして誘惑物語を指定しています。なぜ受難節の最初のテキストとして、この物語が選ばれているのでしょうか。

キリストの受難と誘惑に共通するものとして二つのことが考えられます。第一は、どちらも彼の身に降りかかった経験であることです。アリストテレスは人間のふるまいを「行動」と「受苦」に分けて、前者を自らの積極的な行為によるもの、そして後者を人がその身に蒙るものとしました。受難と誘惑は後者に属するでしょう。じっさい私たちは人生で、さまざまなことを避けようもなく身に降りかかることとして経験します。自分が生まれてくる家族や時代や国を私たちは選ぶことができません。誰かを好きになること、病気になること、事故にあうこと、辛い別れを経験すること、だんだんに体の働きが衰えてゆくこと、そして戦争や紛争に巻き込まれることなども、そうしたことに含まれます。

第二に共通しているのは「神の子」キリストの人間性、つまり死ぬことも試練に晒されることも、彼が人であるがゆえの経験であることです。他人から拒絶されて孤立するという経験は、集団で生きる動物にもあるでしょうが、きわめて人間らしい経験です。去年の今ごろ、ユニセフに所属するある研究機関が公表した先進国の「子どもの福祉」に関する調査*1で、日本の十五歳の子どもの3割が「孤独を感じる」という項目に「イエス」と応えて、他のほとんどの国々が1割を超えていなかったこともあり、その突出ぶりが新聞などでも話題になりました。

*1 "An overview of child well-being in rich countries" (pdfファイル、1.5MB)

また、高校生のいじめで加害者になる者の多くが、中学時代にいじめられた経験のある者だとも聞きます。大人の世界で誹謗や中傷があることは、今さら申し上げるまでもありません。他方で、2007年を代表する一語が「偽」であったことは記憶に新しいところです。賄賂や接待やゴルフ、保険金の未払いや賞味期限の改竄など、この世界には真心のない金儲け主義と誘惑があふれています。「神の子」イエスは、こうしたことすべてを高見から見下ろしているのでなく、我が身に経験しました。彼はその意味で私たちの一人です。

苦しみを受けることも誘惑に晒されることも、ともに人間らしい経験です。今日は神の子イエスと私たちにとって、このつながりが何を意味するかを、ご一緒に考えてみたいと思います。

II

その前に、この誘惑物語の特殊な性格について一言申し上げます。福音書で誘惑物語は、イエスの洗礼と彼の公的活動の間に置かれています。つまり人生の使命を与えられた後、それに具体的に着手するに先立って、いわばテストとしてイエスは悪魔の誘惑を受けます。

しかし現在あるかたちの誘惑物語は、イエスが経験したことそのままのルポルタージュではありません。「お前が神の子であるなら」という三度繰り返された悪魔の問いかけは、イエスが「神の子」であるという信仰を前提しています。歴史のイエスは、神を「父」とは呼びましたが、少なくとも自分のことを「神の子」とは呼びませんでした。はっきりそうするのはイエスの死後に成立した原始キリスト教です。つまり誘惑物語は、原始キリスト教になって初めて創作された、ある種の理想化された場面なのです。それだけに、この場面に託された象徴的な意味合いに注目する必要があります。

この物語には「悪魔」が登場して、イエスと対話します。皆さんの中に、「悪魔」と対話した経験のある方はおられますか。現代人にとって「悪魔」は神話や御伽噺の世界に属します。しかし古代人イエスは、「悪魔」の存在を信じていました。この誘惑物語を形作った人々は、「悪魔」という言葉を、私たちほどの抵抗感なしに使うことができました。

そもそもイエスが生きた時代のユダヤ民族は、外国であるローマ帝国によって軍事的・経済的・政治的に支配され、なおかつ圧倒的な優位に立つヘレニズム文化に取り囲まれて、自らのアイデンティティーを求めてもがき苦しんでいました。当時のユダヤ教の諸派は、民族伝承や律法をそれぞれ独自の仕方で解釈しながら、「我らこそは義人なり、神のイスラエルなり」と主張したのです。そして自分たちから見て「真のユダヤ人」とは言えない民族同胞を「罪人」と呼んで、自民族の内部で強烈に差別しました。民族としての一体感は失われ、民衆の自尊心は大きな不安と脅威に晒されていました。聖書の創世記には、たった一人の神が言葉によって世界を創造したと書いてはありますが、民衆レベルでは「悪魔」や「悪霊」が病気や障がいその他の禍いを引き起こすと信じられていました。イエスはそんな人々の間で生まれ、生きたのです。

その「悪魔」が、ここでは「試みる者」として登場します。「試みる者」とはヘブル語で「サタン」と呼ばれる存在の属性のひとつです。「サタン」はもともと敵対者というような意味ですが、そうした存在が天上の神の会議に列席しており、時代が下ると神に逆らう悪の権化と考えられるようになりました。ヨブ記に出てくるサタンはまだ神の敵対者ではなく、誘惑ないし試練という経験を主題化するための、ある種の文学的な仕掛けです(ヨブ記1,6以下)。私たちの物語においてもいくぶんそうした性格があります。

III

さて第一の誘惑は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」というものです。この問いかけは、イエスが奇跡を行うことのできる神的な存在だという前提に立っています。私たちに置き換えると、「もしキリスト教の神が存在するのなら、その神に願って、世界の飢餓問題を一挙に解決したらどうだ」と言われたように感じます。

『世界がもし100人の村だったら』という、現在の人類統計比率に基づいて全世界を100人の村に縮小するとどうなるかを描いた本によると、「6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍、80人は標準以下の居住環境に住み・・・、50人は栄養失調に苦しみ、1人が瀕死の状態にあり」ます。――イエスにとっても、パンの問題がどうでもよかったとは思われません。飢えた群衆のためにパンを増やして、お腹一杯食べさせてやったという奇跡物語が、イエスについて伝えられています。

この問いかけに対するイエスの答えは、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」というものです。申命記8,3の引用です。私たちの食べ物は単なる「餌」ではないのです。食糧問題は資源の分配に関わる問題ですが、根源的に人権問題です。「神からでる一つ一つの言葉」とは、神が人に与える、奪い去ることのできない尊厳のことではないでしょうか。つまり人はパンと尊厳をもって初めて生きるという意味です。

IV

第二の誘惑は、「聖なる都」つまりエルサレムの「神殿の屋根の端」が舞台です(「屋根の端」と訳されたギリシア語の意味は、実は不明です)。今度は、悪魔は詩編(91,11-12)を引用しつつ、飛び降りて神が天使を派遣して助けるかどうか試してみろと挑発します。

私たちにも、非常に信頼すべき誰かを試した経験はないでしょうか。例えば、子どものころデパートに出かけたとき、少しだけ隠れてちゃんと親が見つけてくれるかどうかなど。イスラエル民族も、エジプトを脱出して荒野をさ迷い歩いたとき、神を疑ってこれを試みたと聖書にあります(出エジプト15章17章)。

イエスは再び聖書(申命記6,16)を引用して、「あなたの神である主を試してはならない」と返答します。しかし私たちはときどき自分の運命を恨んで、神に挑戦したくなるのではないでしょうか。ラスコーリニコフは、自分のように才能のある若者が、たんに貧しいというだけで不遇をかこつのは我慢ならない。何の役にも立たない守銭奴に過ぎないおばあさんを殺害して、金を奪うのはむしろ正しいことだと考えたのではなかったでしょうか。また人類の進歩の一部は、誰にもできなかったことを成し遂げたい、世界を征服したい、世界で一番高い山に登りたい、月にまでロケットを飛ばしたい、細胞から人を再生したいという野望に、つまり神ではなく、自力を頼りに自らの救いを達成したいという欲望に支えられてきたように感じます。

留学時代に、ある日本の自動車メーカーのテレビ・コマーシャルを見て、驚いた経験があります。「Nichts ist unmoeglich, TOYOTA」(英語に訳せばNothing is impossible, TOYOTA)。――聖書には、マリアの受胎告知の場面に、「神にできないことは何一つない/Nothing will be impossible with God (RSV)」(ルカ1,37)とあります。このCMは、キリスト教国では彼らの神への挑戦と受け止められたかもしれません。いいえ、私たちは既に久しく、何教徒であるかとは無関係に、神を試みるのみならず、神に挑戦し続けているのだと思います。

V

そのことが第三の、最後の誘惑につながっています。悪魔はイエスを「非常に高い山」につれてゆき、世界のさまざまな王国とその輝きを見せた上で、こう言います、「もしひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」。有名なファウスト博士のモチーフですね。すべてを支配し、思い通りに操る――これは物事を決定する立場にあるすべての人が晒されている誘惑です。

しかしイエスは答えます。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」。再び申命記6,13の引用です。神だけを崇拝するという言葉は、モーセの十戒を思い起こさせます。

「あなたは自分のために像を作ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にあるもののいかなる形も〔作ってはならない〕。あなたはそれらにひれ伏しても、それらに仕えさせられてもならない」(出エジプト記20,4-5、岩波訳)。

もう一つ、「あなたは、あなたの神ヤハウェの名を、空しいことのために唱えてはならない」(同7節)――これは「人に害を与えたり傷づけたりするため、嘘のため、悪意をもって神の名を口にすること」を禁じているのかもしれません(岩波訳、脚注による)。しかし別の意見では「ヤーウェの名をみだり(なるもの=虚しいもの、偶像)に(向かって)唱えてはならない」という意味だそうです(太田道子『言葉は光・2』165頁)。

いずれの場合も、人は神以外の何物にも服従してはならず、この世界にある何物をも絶対権力と認めてはならず、根源的に自由であるべきだという意味であろうと思います。逆に言えば、神以外のものを崇拝する人は、例えば利益のために、あるいは我が身可愛さに、必ず人に害を与えたり傷つけたり、あるいは嘘のために、悪意をもって、神の名や宗教的な権威や、その他の大義名分を振りかざす。暴力が支配するところでは、対立する双方の側が「テロだ」「いや正当防衛だ」と相手を非難することで、結果的に果てしない暴力の連鎖が肯定されます。

VI

イエスの受難と彼の誘惑物語に何の関係があるのでしょうか。イエスの身に降りかかったことと、私たちの身に降りかかることは何の関係があるのでしょうか。いくつかのことが分かったように思います。

まず、十字架の処刑に至るイエスの受難は、人の尊厳よりも所有を優先し、神に闘いを挑み、神の名によって自らにあらゆる権益を集める私たちの罪と関係があります。政治的な決定が自由ではなく、暴力によって正当化されるところで、暴力を拒絶する者はガンディやキング牧師の例に見られるように、多くの場合暴力によって抹殺されます。イエスの死も、そのような死の一つでした。彼は私たちの罪を背負って死んだのです。

つぎに「神の子」イエスに降りかかった誘惑を、イエスが退ける言葉の一つ一つは、「神の子」でなければなしえないような超人的な能力を示唆しません。それは、むしろ私たち一人ひとりの生き方に関わります。相手の尊厳を認めつつパンを分け合うこと、疑って試すのでなく自発的な信頼を基礎に生きること、そして全宇宙にあるすべてのものを自分と平等な存在と決断して、何かにかこつけて自分を相手より上だなどと思わないことです。イエスは自らの生をもってそのことを示し、どんなに裏切られても決して諦めませんでした。

最後に、二つのことを申し上げます。誘惑なしに生きることは可能でしょうか。それは不可能です。それでもイエスと共に、こう祈ることはできます、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」、また「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ福音書14,36)。そしてもうひとつ、誘惑は神から来るのでしょうか。分かりません。それでも誘惑ないし試練の中で、神に呼びかけることは可能です。受難のイエスは神にこう呼びかけています、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ福音書15,34)。神はイエスを見捨てなかったことを、私たちは知っています。ならば私たちは自分に絶望することがあったとしても、神に対してそうする必要はないのです。

「神の子」イエスの誘惑は、受難に歩み入るイエスが私たちにとって何者であるか、彼を復活させた神がどんな神であるかを指し示す物語です。私たちは自らの罪を悔いて、死と復活に至るイエスの歩みを、信仰をもって心に刻みたいと思います。



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