先ず、12節の「両刃の剣」という表現に注目したい。『広辞苑』を引くと、「諸刃の剣」と書くのが普通らしい。そして、それは「一方では大層役に立つが、他方では大害を与える危険を伴うもののたとえ」と説明されている。「正反対の二つの機能を持つ」という意味であろう。政治家たちもこの言葉をわりに頻繁に使う。その場合は、「相手を切ることもできるが、同時に自分をも傷つける恐れがある」という「二義性」を意味していることが多い。ある政治家が、自分を批判した相手を切り返すためにこの言葉を使っているのを聞いたことがある。
しかし、ヘブライ書の「両刃の剣」(マハイラン ディストモン)は、正に「両側に鋭利な刃がつけられた剣」のことであって、「二義性」というよりは、むしろ「鋭さ」、あるいは「凄まじい切れ味」を意味している。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(12節)。
さて、今日の箇所は、4章1節以下で「神の安息にあずかる約束」について述べたくだりの結びである。従って、我々は先ずその文脈をたどってみたい。
1節に、「神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」とある。これが、著者の言いたいことの中核である。そして、この「神の安息にあずかる約束」を説明するために、彼は詩編95編を引用する。この詩は、イスラエル民族の40年に及ぶ荒れ野の旅を念頭に置いて作られたものだ。この点に留意してほしい。
すなわち、イスラエル民族はエジプトでの奴隷状態から解放されて、「乳と蜜の流れる地」(カナン)に入ることを約束されていたにもかかわらず、途中の荒れ野で試練に遭うと、その苦しみに耐えかねて神に背いた。そのことを、詩人は「あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。四十年の間、わたしはその世代をいとい、心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとはしなかった。わたしは怒り、彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った」(詩編95編9-11節)と歌ったのである。
だが、神の約束は生きている。途中、どんなに困難があろうと、憩いの地に入って神の安息にあずかることができるという約束は廃棄されてはいない。確かに、民の多くは荒れ野で試練に遭ったとき、それを信じることをやめたために神の怒りを招き、憩いの地に入ることができなかった。しかし、だからと言って、神の約束そのものがなくなってしまったわけではない。
ヘブライ書の著者はそう述べた後で、詩95編7節を引用して「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」(7節)と戒めたのである。これが4章前半の文脈である。
その点から、今日の箇所も理解されよう。「どんな両刃の剣よりも鋭い」神の言葉とは、差し当たり、「神の安息にあずかる約束」(1節)のことである。そして、「約束」とは、いい加減な、甘い口約束ではなく、「契約」のことである。
神はイスラエル民族との間で契約を結ばれた。これが旧約聖書の根本思想である。ノアが箱舟によって滅亡の危機を脱したとき、神はノアとその子孫を祝福して契約を結び、その徴として美しい虹をかけて、生きとし生けるものの命を守ると約束された。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記9章1節)。
だが、この契約は、神の約束であると同時に、人間にも守るべきことを厳しく要求した。それは、他者の命を奪ってはならない、ということである。「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される」(同6節)。このように、契約は確かに恵みではあるが、同時に、双方の側で守るべき条件を定めた厳しいものだ。
その意味で、神の約束の言葉は、「どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分ける」のである。従って、著者が続けて言うように、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです」(13節)。
先に私は、ここでいう「神の言葉」とは差し当たり「神の安息にあずかる約束」、つまり、旧約聖書が語るもろもろの言葉のことだ、と述べた。だが、これまで述べたすべてのことは、正にイエスの言葉にこそ当てはまるのである。
我々は、姦通の現場で捕らえられた女が連れてこられたとき、しばらく黙って指で地面に何か書いておられたイエスが身を起こして言われた言葉を知っている。「あなたたちの中で罪を犯したことにない者が、先ず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8章7節)。この一言は、周りでこの女を糾弾していた人々の正体をさらけ出した。
そして、周りに誰もいなくなったときイエスが言われた言葉! 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(同11節)。この無限に優しい約束であると同時に、無限に厳しい言葉! これこそ神の言葉なのだ。
ヨハネ黙示録は、天上におられるキリストの姿を、「口からは鋭い両刃の剣が出ていた」(1章16節)とか、「鋭い両刃の剣を持っている方」(2章12節)と描写しているが、これはまことに適切であったと言わなければならない。
そして、やがてこの方に対して自分のことを申し開きしなければならなくなる時が我々には必ず来るのである。