降誕後主日礼拝 2007.12.30

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「わたしたちの交わり」

村上 伸

イザヤ書48,3-6;ヨハネの手紙一 1,1-4

 25日が過ぎると、巷ではクリスマス商戦用の派手な装飾があっという間に片付けられて、門松と入れ替わる。その変わり身の速さには驚くほかはない。

しかし、教会ではクリスマスの喜びはまだ持続しているのである。古来、東方の占星学者たちがベツレヘムにやって来て「幼子を拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」マタイ2章11節)のは1月6日だという伝説がある。それに基づいて世界の多くの教会はその日を「顕現祭」(エピファニー)と名づけ、主イエスの栄光がこの世界に「顕現した」ことを祝う。クリスマスの飾りをこの日まで残しておくという習慣も、イエスの誕生を単に一時的な祝祭で終わらせないための知恵である。

さて、今日の説教テキスト:ヨハネの手紙一 1章1-4節に注目したい。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」2節)。ここに書かれている内容も、今述べたことと関係している。これは、要するにイエスの誕生のことなのである。1節から2節にかけて「命の言」・「この命」・「この永遠の命」という三通りの言い方が出て来るが、これは、ヨハネ福音書が「恵みと真理」1章14節17節)と言っていることと同じだ。その「恵みと真理」、つまり、初めに神と共にあった「言」が「肉となって、わたしたちの間に宿られた」ヨハネ福音書1章14節)というのである。「恵みと真理」は、イエスの誕生という出来事において具体的な人間の形を取って現れた。

それも、偶発的に、たまたまそうなったというのではない。この「恵みと真理」は「初めからあったもの」1節前半)、すなわち「御父と共にあったもの」である。だから、「永遠の命」2節後半)と言われるのである。

そして、それは人間の頭の中で考え出された抽象的な「理念」や「思想」ではない。ナザレのイエスというひとりの人間として、私たちと同じ肉体を持つ生身の人間として、私たちが生きているこの世界の只中に現れたのである。そして、先ず「暗黒の地」といわれたガリラヤに姿を現わした。貧しさや心身の病気などの不幸に苛まれていた民衆は、実際にこのイエスの優しい声を聞き、彼の慈しみ深い眼差しを見、彼の愛に満ちた手に触ったのである。また、イエスが語る言葉を聞いて、他の宗教指導者や律法学者たちにはない、人の心を深く・暖かく揺り動かす力がこの方にはあると感じた。そして直感的に、この方には真実の愛があると見抜いたのだ。この方は、目の前で苦しむ人を助けるためには、「律法」に違反して罪人の仲間になることさえ厭わなかったではないか。これらを総合して、ヨハネは「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」1節前半)と言ったのである。

こういうことを、自分の貧しい記憶の中にだけ仕舞い込んでおくわけには行かない。私たちも、自らの体験を人に話さずにいられなくなることがある。人の体験を聞かされることも多い。実際、「体験談」は面白いし、そこから学ぶことも少なくない。しかし、何回も聞かされている内に「鼻についてくる」ことがあるし、自分で話す時も、いつの間にか誇張が加わっているのに気づいて自己嫌悪に陥ることもある。私たちの「体験談」には、そのような弱さが付きまとっている。

だが、ヨハネが語るのは、そのような「体験談」ではない。彼が「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」1節前半)と言ったとき、重点はイエスにあった。彼がその耳で聞き、眼で見、手で触れたものは、自分たちを愛して下さったイエスの真実であった。この「恵みと真理」を語りたい。ただこのことを、他の人たちにも伝えたい。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝える」3節前半)とヨハネが言ったのは、そういう意味である。自らの体験を自己陶酔的に語るのとは違う。

 ヨハネは続けてこう言う。「[このことを]あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」。これには深い意味がある。つまり、イエスが証しした「恵みと真理」こそがすべての人に「交わり」を保証する、ということである。いわゆる体験談は、本当の交わりを産み出しはしない。よく「体験したことのない人には、結局、分からない」と言われるように、あることを体験した人と、そうでない人との間には、深い断絶がある。

 だが、「恵みと真理」はどんな人にもわけ隔てなく与えられる。それが、私たちの間に本当の交わりを生み出す。彼が、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」と言ったのは、その意味である。

ドイツで勤務していた頃、親しくしていた友人がシュトウットガルトにいた。私よりもいくらか若いが、互いに深い尊敬と信頼で結ばれるようになり、それは今でも続いている。帰国後、女子大で教えるようになってからほとんど毎年学生を連れてドイツ研修旅行に出かけたが、旅行日程が許せば彼の家庭を皆で一緒に訪問した。彼は一家を挙げて私たちを歓迎し、その地方特有の田舎料理をご馳走してくれた。

その彼から、クリスマスに長い手紙が来た。彼自身の病気のこと、家族の上に起こった辛い出来事などをこまごまと記した後で、彼はこう書いていた。「僕の書斎の机の上に、君が毛筆で書いてくれた言葉が掲げてある。<道は遥かに約束の土地に向かって続いている>というのだ。苦しい時、僕を支えてくれたのはこの言葉だった」。

このように、彼と私は、イエスによって、イエスに現れた「恵みと真理」によって結ばれている。これが私たちの交わりである。そして感謝すべきことに、このような交わりは世界中に存在する。このことを確認して今年の歩みを締めくくりたい。



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