聖夜燭火礼拝 2007.12.24

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「自分を無にして」

廣石 望

フィリピ2,6-11

I

親愛なる姉妹兄弟の皆さん、クリスマスおめでとうございます。

私たちの国の多くの子どもたちが、サンタクロースを信じています。サンタクロースは今夜つまりクリスマスイヴの夜中に、戸締りのしてある家庭にやってきて、子どもたちにプレゼントを配って歩く、知らないおじさんです。通常、夜中に戸締りのしてある家に入ってくるのは泥棒と相場は決まっていますが、サンタクロースに限って、知らない人なのに親も子どもも怖がりません。我が家の子どもたちは、サンタクロースに宛てたお礼の手紙にクッキーとミルクを添えて、クリスマスツリーの傍らに置いていたものです。私の知らない両親以外の誰かが、一度も出会ったことがないのに私のことを見守り、気にかけてくれている。彼が置いていったプレゼントが、そのことをはっきり示しています。それが日本の家庭の、まことに幸せなクリスマスイヴの光景です。

サンタクロースをめぐる習慣は地域や文化によって違いがあり、すべてのサンタクロースが、いま述べたようなかたちで子どもたちのところに来るわけではありません。しかし何れにせよ日本の子どもたちは、やがてそういう意味でのサンタクロースはいないことに気づきます。成長期の子どものいる家庭では、クリスマスが近づくと、子どもも親もそわそわした気持ちになるものです。

問題はその後です。無邪気に信じてきたサンタクロースはどうやらいないらしいことに気づいた子どもたちは、もちろん幻滅します。「何だ、そうだったのか!」。しかし自ら経験した期待と感謝、そして喜びを子どもたちが忘れることはないでしょう。人を信じることの大切さは残ります。だからそうした子どもたちも、やがて自らが親になると、やはり心を込めて子どもたちにサンタクロースの物語を聞かせ、贈り物をしようとするのではないでしょうか。

1897年、「サンタクロースは本当にいるの?」という8歳の少女バージニアの質問に答えて掲載された『ニューヨークサン』紙の有名な社説があることは、皆さんもご存知でしょう。その中に、次のような一節があります。

そうです、バージニア。サンタクロースがいるというのは、けっしてうそではありません。この世の中に、愛や、人への思いやりや、まごころがあるのとおなじように、サンタクロースもたしかにいるのです。あなたにもわかっているでしょう。――世界にみちあふれている愛やまごころこそ、あなたのまいにちの生活を、うつくしく、たのしくしているものだということを。
『サンタクロースっているんでしょうか?』(中村妙子訳、東逸子絵、偕成社、1986年)より

サンタクロースはいない。しかし私たちも、「Yes, Virginia, there is a Santa Claus」と言いたいものです。これを幻滅の後の「第二のナイーヴさ」と呼んでよいでしょう。

II

さて私たちは既に久しく、近代科学がもたらした「幻滅」の後の時代を生きています。かつて人々が考えてきたような神はいなかったからです。空の彼方に広がるのは神々が住む天界ではなく、巨大な宇宙空間でした。星々は神ではありませんでした。大地は宇宙の不動の中心と信じられてきましたが、地球は球体であり、太陽の周りをまわっていることが分かりました。人間を含むすべての生き物は、神によって作られたと教えられてきましたが、どうやら生き物は気の遠くなるような長い時間をかけて、進化するものであるらしいことが分ってきました。

しかしだからといって、祈ること、歌うこと、心を神に向かって開くこと、「愛や、人への思いやりや、まごころ」の根源的な大切さが消え去ってしまうわけではありません。さらに私たちは、自分たちの宗教だけが正しく、あるいは自分たちの解釈だけが正しくて、別の考えをもつ人々を排除すれば問題が解決すると考えるような原理主義者でありたいとも思いません。今夜、神の子イエス・キリストの誕生を祝う私たちにとって、いったい「第二のナイーヴさ」とは何でしょうか。

III

今日のテキストは、有名なフィリピ書のキリスト讃歌です。これはイエス・キリストのできごとの全体をふまえてその意味を、簡潔な言葉でキリストとその父なる神を讃えつつ歌う詩です。

この詩は前半と後半に分かれています。前半は神の身分にあったキリストが、まるで奴隷のように「自分を無にして」人となり、十字架の死を死ぬに至るまで神に服従したと歌います(6-8節)。そして後半は、その奴隷の死を死んだキリストを、神は天高く引き挙げて「あらゆる名にまさる名」、すなわち旧約聖書で神を意味する「主/キュリオス」という名を与えた、それは全宇宙がその名の前にひざまずいてキリストを「主」と告白するためであったと歌います(9-11節)。そして、これらすべてのことが起こったのは「父である神をたたえる」ためであったと。

イエスは社会の片隅に追いやられた人々とともに生きることで、神の愛を伝えました。彼は病人を癒し、病気や障がいを引き起こす悪霊を追い払い、穢れているとされた人々の家に泊まり、その人たちが調理した食事を一緒に食べました。また難しい律法の勉強などする余裕のない人々にイエスはたとえ話を語って、神がいま人々とともにおられることを伝えました。しかし人々が最後にイエスに見たのは、一人の挫折した偽預言者、一人の偽メシア、つまりペテン師でした。

イエスの時代のユダヤ教の指導部である最高法院(サンヘドリン)は、神殿のあったエルサレムにありました。そこには大祭司、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがいました。彼らは巡礼の祭りのために上京して、神殿崩壊の預言を行ったイエスを危険人物と見なしました。彼らはイエスの身内の者たちの裏切りを利用して、ついにイエスを逮捕し、彼を死刑にすることを決議しました。その後で起こったことについて、聖書にはこう書いてあります。「ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った」(マコ14,65)。イエスは自分の民族の指導者たちから拒絶され、侮辱されたのです。

他方で、当時のパレスチナを支配していたローマの総督ピラトもまた、イエスを放置しませんでした。この男には、イスラエル民族を外国支配から解放する王なるメシアという期待が寄せられていたからです。最高法院から引き渡されたイエスを、ピラトもまた死刑にすることに決めました。十字架刑は、重大な罪を犯した奴隷や国家反逆罪に問われた属州民に対する見せしめの処刑法でした。処刑のために引き渡されたイエスは、ローマ軍の兵士たちから虐待されます。「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした」(マコ15,16-19)。こうしてイエスは、外国軍の兵士からも虐待されて殺されました。

しかしそのように死んだイエスが、死者たちの中から起されて、いまは神の命を生きているという確信が生まれました。イエスは自らの活動を通して神の支配が実現してゆくと信じましたが、この確信から、神の支配はイエスの復活をもって始まったという信仰が生じたのです。弟子たちの信仰におけるこの変容にきっかけを与えたのが、復活節に生じたもろもろの顕現のできごとでした。これがキリスト教の誕生の由来です。

IV

私たちの讃歌はこの復活信仰に立ち、想像力と詩心を込めて、キリストのできごとを歌います。そこには現代の私たちがもはや共有していない世界観が前提されています。神の身分であるキリストは天上界にいましたが、人間になることで地上界に降り、さらには死者となって冥界にまで降り、その後で神によって天上界の頂点にまで引き挙げられたとあるからです。「天上のもの、地上のもの、地下のもの」(10節)という世界理解を、私たちはもはや共有していません。ではこの歌は、現代において、サンタクロースを信じる子どものようにナイーヴな人たちにしか通用しないものなのでしょうか。

この賛歌には、古代の人々にとっても、たいへんにショッキングな内容が含まれていることに注目したいと思います。なぜならここでは、偽預言者・偽メシアとして、自分の民族からもまた当時の世界帝国からも拒絶され、恥辱にまみれて惨めで苦しい死を死んだ一人の人間こそが神であるという発見が、高らかに歌いだされているからです。人々はきっと反発したことでしょう、「あのような惨めな死を死んだ犯罪者が神なのか。そんなはずはない。神とはもっと気高く、力強く、例えばローマ皇帝のように、あるいは天上界に君臨する神々の王のように、それこそ神々しい存在であるはずだ」と。この発見は、サンタクロースの発見と同様、人々の間で幻滅としらじらしさを呼び覚ましたのです。

この賛歌は、原始キリスト教が古代の神観念にもたらしたある革命について証言するものです。神は、人々が神らしいと思っていた存在とはまるで違ったのです。ひるがえって、これこそ神であると思われていた存在は、むしろ神と呼ばれるに値しないことが判明しました。古代においてキリスト教徒は「無神論者」と呼ばれて軽蔑されました。彼らが諸民族の父祖伝来の神々を、もはや神とは見なさなかったからです。

イエスのできごとを通して人々の間に拓けたのは、「自分を無にして」低きに降る神こそが本当の神であるという認識でした。愛のゆえに「自分を無にして」死の中にまで歩み入る神――こんな神はいませんでした。ここまで人に近くある神はいませんでした。この賛歌は、人間を超える「愛や、人への思いやりや、まごころ」がこの世界に存在し、それが私たちのすぐそばにあって、いまも私たちに働きかけていると歌っているのです。これは古代キリスト教における「第二のナイーヴさ」の誕生といってよいのではないでしょうか。私たちが今夜、貧しい夫婦の間に生まれた一人の赤ん坊にすぎないイエスを讃えて、賛美の歌うのもそのためです。

皆さん、お一人おひとりにメリークリスマス!



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