クリスマス礼拝 2007.12.23

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「マリアの賛歌」

村上 伸

サムエル記上2,1-11;ルカ福音書1,46-55

『マリアの賛歌』は、中世の教会用語であったラテン語では、「あがめる」(マグニフィカート)という言葉で始まっている。そこから、この賛歌は「マグニフィカート」という名称で呼ばれるようになった。そして、マルチン・ルターをはじめとして、多くの神学者たちはこの美しい賛歌について優れた講解を書き、数々の音楽家が名曲を作曲し、その多くは今に残っている。

さて、この美しい賛歌の基調音(あるいは最も大切な強調点)はどこにあるのだろうか? 今述べたような事情から言っても、47節「わたしの魂は主をあがめる」という最初の一句にあると言ってもいいであろう。

だが、内容から言えば、もう少し別の見方ができる。私には、最も大切な強調点は次の48節、つまり、「[神は]身分の低い、この主のはしために、目を留めてくださったからです」という所にあるように思われる。

「身分の低い、この主のはしため」とは、単に「社会の下層階級の出身」というような意味ではない。ルターも『マリアの賛歌』(1521年)と題する短い講解において、この言葉の意味について次のように書いている。

「[それは]人に侮られる、みすぼらしい、卑しい状態ないしは境涯に他ならず、例えば、貧しい人々、病む人々、飢えている人々、渇いている人々、捕らわれている人々、悩んでいる人々、死にかけている人々はそれである。試練に遭った時のヨブ、領国から追い出された時のダビデ、窮迫した時のキリスト、及びすべてのキリスト教徒たち」(石原謙訳)。

マリアは未婚の母になった。天使のお告げを受けたとき、彼女はどんなに恐れ、不安を感じたことであろう。わたしは人に侮られるに違いない。そう思って悩まずにはいられなかった。彼女は疑いもなく、ルターの言う「人に侮られる、みすぼらしい、卑しい状態」にあった。

だが、その悩みの中で、天使が「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」ルカ1章30節)と告げる。彼女は天使に説得された。人は、人生の一番大切な、それゆえに危険でもある瞬間に、天使に説得されることがある。

マリアは天使に説得されて、「神は自分のような者にも目を留めて下さる!」と信じたのであった。彼女が「主をあがめる」理由はここにあったのである。

小田実というユニークな作家がいた。今年7月30日に他界したが、彼は自分の生き方を「虫瞰図」という不思議な表現で説明したことで知られる。「鳥瞰図」ではない。鳥のように高い所から全体を見渡すことにも意味があろう。しかし、自分の生き方はそれではない、と彼は言った。虫のように地べたを這いずり回って、苦しんでいる小さな人間に最も近い所で世の中を見、そこから世界の現実を見る。

彼の死後、妻の玄順恵(ヒョン・スンヒェ)さんは「毎日新聞」とのインタビューの中でこう述べた。「小田は、小さな人間、ということを最後まで言っていました。大きな人間というのは力を持っている人。つまり政治や経済を握っている人たちでしょう。その中で、小さな人間を自覚することが大事だと。大きいのにつくんじゃなくて、あくまでも小さなところに根ざして世の中を見なくちゃいけない。そうじゃないと真実は見えないと」(12月19日夕刊)。

これは、ボンヘッファーの「下からの視点」という考え方と同じだ。彼は投獄される前年、1942年のクリスマス頃、次のような断章を書いて友人たちに残した。「われわれは、世界史の大きな出来事を一度下から、つまり、社会から閉め出された人々、疑われた人々、虐げられた人々、権力なき人々、抑圧されあざけられた人々の観点から、簡単に言えば、苦難を受けている人々の観点から見ることを学んだのであり、これは比べることもできないほどの価値を持った体験として残る」(『獄中書簡集』19頁)。

『マリアの賛歌』を貫いているものは、このような「下からの視点」ではないだろうか。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」51-53節)。それが「主の憐れみ」50節、及び54節)に他ならないのである。

本田哲郎神父は、この「憐れみ」を「人の痛みを知るその心」と訳した。このことに注目したい。聖書の神は、この意味での「憐れみ」の神である。『マリアの賛歌』に酷似したものに『ハンナの祈り』(サムエル記上2章)がある。そこでは、主は「弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げる」8節)と言われている。これは「憐れみ」にほかならない。

聖書の神は、このような「憐れみ」の神であり、「人の痛みを知る心」を持つ神である。そして、この世に生まれた主イエスは、正に、そのような神の子として私たちと共に生きたのであった。



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