待降節第2主日 2007.12.9

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「この世を正しく裁く日」

廣石 望

イザヤ書51,1-8;使徒言行録17,26-31

I

戦後日本で定着したキリスト教的な習慣に、結婚式とクリスマスがあります。とりわけクリスマスは教会の礼拝に参加しなくても、家庭やレストランで家族や友人たちで祝うことができるので、結婚式よりもお手軽なのでしょう。多くの人がクリスマスを祝い、プレゼントをします。とくにデパートでは、教会暦がアドヴェントに入る前からクリスマス商戦を始めます。この季節になると私の住む町を含めて、目抜き通りや広場は大きなクリスマスツリーや美しいイルミネーションで飾られます。「東京にはこんなに隠れキリシタンがいたのか」と冗談の一つも言いたくなるほどです。

逆の視点からのジョークがあるのをご存知ですか。キリスト教徒ではないけれども毎年楽しくクリスマスを祝っている人が、教会でもクリスマスになると特別な礼拝をしていると聞いて発したらしき言葉です。すなわち「教会でもクリスマスをするのですか?」

これはなかなか卓抜なブラックジョークですが、私たちは簡単に一笑に付すことはできません。いくつかの問いがわいてきます。例えば、キリスト教国でない私たちの社会がクリスマスを祝うのは、本当はなぜなのか? クリスマスの間違った祝い方はあるのか? そもそも神は何のためにこの世界に来るのか? また教会は、キリストの誕生を歴史的な過去として書き留めるだけで満足せず、なぜ毎年クリスマスを祝うのか?

第2アドヴェント聖日の今日、こうした問いを皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。


II

今日のテキストは、パウロがアテネのアレオパゴスの広場で行ったとされる説教です。ご存知のように古代ギリシアは多神教の世界です。たくさんの神々のための神殿がギリシア都市にはありました。アテネも同じです。そこでパウロは「知られざる神に」と刻まれた祭壇を見出したと、直前の文脈にあります(23節)。考古学的には、アテネではそうした祭壇は発見されていないそうです。しかしこの記述が私たちに理解させようとしていることは明らかです。アテネ市民は、自分たちが特別の祭壇を設けて礼拝していない神がいた場合、この神の怒りをかうことを恐れて予防策を講じているのです。

現代日本でキリスト教そのものとは無関係にクリスマスを祝う人たちの自覚的な動機とは異なりますが、何かしら通じるものが感じられてなりません。日本の人たちも、自らはそれと知らぬまま、実際には知られざる神を求めているのではないでしょうか。

パウロは、このギリシア人たちにとって「知られざる神」が「一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界を決めた」と言います(26節)。その神とはユダヤ教の神つまりイエス・キリストの父なる神ヤハウェ、「一人の人」とはユダヤ教正典の創世記にいうアダムです。ですから、この発言はユダヤ教を継承する立場からなされています。それでもこの語りかけは、民族や宗教の違いを超えて共通するものを見出そうとする姿勢の表われだと思います。現代ならば、「私たちは皆人間だ」「私たちはグローバルヴィレッジの住民だ」というような言い方になるかも知れません。

さらにパウロは、人類が諸民族に分かれて諸地域に居住しているのは、「人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということ」だと言います。しかも探り求めさえすれば、神を見出すことができると彼は言います。「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」。(27節)。

多民族世界が生まれたのは、地上の全民族が「神を求める」ためであるという発言は、現代人にはピンと来ないかもしれません。しかし国境や文化の境を越えて、さかんに人々が行き交う時代に生きる私たちにとって、この言葉は示唆に富んでいます。言葉も宗教も違う人々、価値観も習慣も異なる人々が一つの社会で平和に共存できるためには、何が必要か。そして、たんにそうした社会の枠組みを作るだけではなく、その中で生きる私たち、私たちの子どもたちは何を求めて生きてゆくことができるのか――この問いは、環境問題と並んで、21世紀の世界が共通して抱えている課題です。そして「何を求めて生きてゆくのか」と問うことは、神を求めることに他なりません。

キリスト教国でない私たちの国でも人々がクリスマスを祝うのは、本当は、私たちが深いところで神を求めているからなのではないでしょうか。


III

続いてパウロは――というより使徒言行録の著者ルカは――ストア派の詩人たちの言葉を二つ引用します(28節)。

まず「我らは神の中に生き、動き、存在する」とは、紀元前6世紀のクレタ人エピメニデスの言葉です。ここでいう「神」とはゼウスのことです。ストア派は、神的原理であるロゴスが星々や人間の霊魂を含む万物に分有され、ロゴスが万物を貫流していると考えました。この宇宙原理こそゼウスに他なりません。つまりここにあるのは、すべてのものに神が宿るとする汎神論です。だから人は神の「中」に生きているし、人の内側にも神がいるのです。

もう一つの言葉「我らもその子孫である」は、紀元前3世紀のキリキア人アラートスの言葉です。「その」とは「ゼウスの」という意味です。

つまり使徒言行録のパウロは、「知られざる神」という無記名の神を通して、アダムから全人類を生じさせたヤハウェをギリシア哲学にいうゼウスと重ね合わせます。そしてこの重ね合わせから、驚くべき結論を導き出します。

「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」(29節

これはユダヤ教に伝統的な偶像禁止令を、そのまま再録したものとは思われません。「私たちは神の子孫なのだ」という発言は、むしろギリシア的な発想に由来します。人間は言語を解して宇宙原理であるロゴスを把握できる特別な存在として、「神の一族」と見なされました。さらに新共同訳が「神である方」と訳す箇所のギリシア語は、岩波訳が正確に訳すように「神的なるもの」という中性形です。つまりこの発言全体が、ヤハウェというユダヤ教の人格神だけを念頭に置いたものではなく、ギリシア的な考え方をも包み込むものになっています。

人間こそが神の一族なのだから、その人間が自分の「業や考え」で作ったものを「神的なるもの」、超越的なもの、何を求めて生きてゆくべきかを教えてくれるものと見なすべきではない。偶像を「神的」と見なすことによって、人間に与えられた尊厳を傷つけるようなことはあってはならない――そう言われているのだと思います。

この言葉は、文化的・宗教的に多元化した世界で生きる私たちに対する警告と受けとることができます。人間の技術や思惑の産物は、実際この世界に溢れています。そしてしばしば「神と同じもの」として崇められている。例えばお金や権力、名声やブランド、また武器や科学技術。これらは思慮深く用いるべきものですけれど、それ自体が神的では全然ありません。この認識を欠いては、人類の共存はおろか生存そのものが危うくなります。

キリスト教徒であろうとなかろうとクリスマスを祝うとき、人は真の意味で人間らしく、つまりともに喜びを分かち合い、互いの幸せを祈ることを通して自らの尊厳を大切にすべきなのです。自分が作ったものを神と崇めて、やがては自家中毒を起すようなことがあってはなりません。


IV

では、神は何のために世界に来るのでしょうか。パウロは、「神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」と言います(30節)。「悔改める」とは考え方と生き方をまったく改めるという意味です。しかもその根拠を、パウロはキリストの復活が与える未来への希望に求めます。

それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。(31節

神が「お選びになった一人の方」「死者の中から復活させた」この方とは、イエス・キリストです。神が死者たちの中から起したキリストは、神が「この世を正しく裁く日」を定めたことの確証なのだとパウロは言います。

キリストの復活それ自体が、この世に対する神の裁きの始まりです。キリストを死者の中から起す神の行為は、神の愛と正義を求めて生きた一人の小さな人間を、神が死の中に棄ておくことがないことのしるしです。神の裁きは愛と正義の裁きです。預言者イザヤも、こう述べていました。

わたしは瞬く間に
わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ
わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき
わたしの腕を待ち望む。(イザヤ書51,4-5

この世に対する神の正義は「すべての人の光」、それは救いであり、希望と待望の対象です。クリスマスはそのことの始まりです。私たちがそのような未来を信じてよいことを感謝とともに祝うときです。


V

つい先日の新聞に、埼玉県で中国残留婦人18人が、帰国政策の遅れや永住帰国後の生活支援が不十分で社会に十分適応できなかったとして、国に損害賠償を求めていた裁判に関する記事が出ていました。先月、こうした人々に対する新しい支援を盛り込んだ「改正帰国者支援法」が成立したのを受けて、埼玉県での裁判の原告全員が訴えを取り下げたという内容です(2007年12月7日、東京新聞、夕刊第11面)。

そのさいに原告のお一人の女性が意見陳述所を読み上げたそうです。次のような発言が引用されています。「私たちは国に見捨てられた。帰国した後もさまざまな差別を受け、このままでは死ねないと思った」「国は今度こそ私たちに人間らしい生活をさせてください」「帰国者問題は未解決です。特に帰国者の子、子孫が心配です。連れて帰った子孫を日本国民として受け入れ、決して差別をしないでください」。

この方々は民族主義や国家主義の狭間で、言いようもない苦難を生きてこられた人たちです。その訴えは「神を求める」叫びです。人間の技術や思惑によって作られた「国家」の体制ではなく、「人」を大切にしてほしい。考え方を見直して生き方を改め、子どもたちを差別しないでほしいと訴えておられます。

先週の礼拝でも参照された本田哲郎神父による、この箇所の翻訳をお聞き下さい。

しかし今や神は、だれでも、どこでも、
低みに立って見直しをするようにと、
人々に命じられたのです。
神は解放(正義)という規準で世界を裁く、
その日を設定されたからです。
この裁きは、神が決めたひとりの人によって行われます。
神は、その人を死者の中から立ち上がらせることによって、
すべての人にあゆみを起させる信頼をもたせてくださいました。

(『小さくされた人々のための福音――四福音書および使徒言行録』、新世社、2001年)


日本に帰国されたかつての残留孤児の方々は、今年クリスマスを祝われるのでしょうか。ぜひ多くの人々とともに祝っていただきたいと願います。神は解放の正義をもってこの世界を裁く。その日が来る。クリスマスはその実現の始まりであり約束です。もはや、なぜ教会が毎年クリスマスを祝うのかという問いは不要になりました。

私たちも神が正義という光、福音というすべての人を照らす光をもってこの世界を裁くために来られることを信じ、新しい歩みを起すための信仰を受け取りつつ、ともに主イエス・キリストの到来を待ちましょう。



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