2007・11・11

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「気を落とさずに祈る」

村上 伸

イザヤ書42,1-4; ルカ福音書18,1-8

私たちに先だって天に召された信仰の先達を記念するこの礼拝に、多くのご遺族の方々が参加された。皆さんを心から歓迎し、感謝の意を表したい。

週報の裏面に31名の方々のお名前が印刷されている。いずれも正規の会員、もしくはそれに準ずる人たちである。どこかで線引きをしなければならないので、名簿に載せるのはこの人たちに限らせて頂いたが、もちろんこの外にも、教会で葬儀をして送った人々や、ご自分の家族など、忘れられない人たちは多い。今日は、それらすべての人たちを各自覚えて頂いて、共にこの礼拝を守りたい。

ところで、「上原教会」と「みくに伝道所」が合同して「代々木上原教会」になったのは1997年のことであった。だから、今年は創立10周年という記念すべき年に当たる。私たちはこの10年間、先に召された人たちが残された数々の信仰的「遺産」に支えられて教会の歴史を刻んできた。それらは、私たちにとって今も変わらぬ励ましであり、そのことを懐かしく思い起こす度に、私たちには新たな勇気が与えられる。感謝の念を禁じ得ない。

その遺産の中でも最大の宝は、あの方々の「祈り」だったと思う。私は最近、しばしばそのことを思うのである。彼らは、言葉で表すことはしなかったかもしれないが、例えば、次のような祈りとともに息を引き取ったのではないだろうか。

―― 私は今、一足先にこの世を去るが、後に遺された家族や親しい仲間たちが、悲しみや寂しさを乗り越えて良い歩みを続けることができるように、慈愛と全能の神よ、どうか彼らを守り導いて下さい。自分は今後、直接の仕方では彼らのために何もして上げられなくなるが、彼らのこれからの生涯を、あなたの愛の御手に委ねます・・・。

多くの人の臨終を見取った経験を持つ鈴木秀子さんが『死にゆく者からの言葉』という本の中に書いていることだが、人は臨終に際して純化され、和解を成し遂げて息を引き取るという。私は、そのことを信じる。だから、あの人たちの祈りは単に自分の家族だけのための、自分の愛する者たちだけのための、「自己中心的な」祈りではなかったであろう。自分の愛する家族や仲間たちが、他の人たちとの美しい関係を保ち、互いに愛し合って平和に生きて行くことが出来るように、その意味で、この世界がもっと良い、もっと平和な世界になるように、という祈りであったに違いない。

この「祈り」を、神は聞いて下さる。「ただ言葉にならない呻きでしかない祈りでも、天に昇り、高らかに鳴り響き、神の耳に達する」。これは、偉大な宗教改革者マルチン・ルターの言葉である。彼らの祈りを聞かれる神は、遺された私たち一人一人の歩みの同伴者となり、必要な時に必要な助けを送って下さる。私たちがここにこうしているのは、自分自身の力によるのではない。あの人たちの祈りと、それを聞いて下さった神の憐れみによる。

そして、ここにいる私たちすべての者は、あの人たちの祈りを受け継いでいるのである。祈りを聞き給う神を中心として、先に召された人たちの祈りと、私たちの祈りが響き合う。教会は、そのような「祈りの共同体」なのだ!

さて、今日の礼拝のために示された説教のテキストは、ルカ福音書18章1節以下である。この譬え話によってご一緒に考えてみたい。

イエスは、「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」2節)と話し始める。この人物は、権力を傘に着て「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」4節)と威張っていた。世間によくあることである。

他方、「その町に一人のやもめがいた」3節)。聖書の時代、「やもめ」というのは「孤児」と並んで、いかなる力も持たない社会的弱者の代表であった。彼女は、誰かに苛められるか、不当な扱いを受けるかして、困っていたのだろう。この揉め事を正しく裁いてもらいたいと訴え出た。ところが、「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった」4節)という。権力を持つこの裁判官は、「神を畏れず、人を人とも思わない」と自分で言うくらいだから、弱者の訴えなどには耳を貸そうとしなかったのである。こういうことは、21世紀の今日でも相変わらず繰り返されている。血液製剤による薬害被害者たちの訴えを、厚生労働省が長い間ほったらかしにして来たことなどもその実例だ。

だが、このやもめは、暇さえあれば裁判官のところに出かけて行って執拗に訴え続けた。そのしつこさに裁判官はとうとう音を上げて、「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう」5節)と言った、というのである。

この世界は、人間関係で成り立っている。人間関係とは、こちらの出方によって相手も変わる、ということである。私たちの世界は、絶対に変わらない運命のようなものではない。変わり得るのである。イエスは、このことを深く洞察していた。「神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」7節)。

今日の譬え話の中心は、不正な裁判官といえども遂には動く、神はこの世界をそのように動き得るものとしてお造りになった、という点にある。だから、私たちは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」1節)。

先人たちの祈りを受け継いで、美しい人間関係を造るために生きる私たちにとって、これはまことに大切な戒めではないだろうか。



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