先週、私たちの教会では「宗教改革」を記念して音楽礼拝を守った。私は「信仰によって義とされる」という主題で説教したが、その際、「罪」とは「心も体も含めて私たちの人間関係を歪め・破壊する在り方」のことだと述べ、その具体例としてパウロが『ローマの信徒への手紙』1章に挙げた「罪表」を引用した。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲」(31節)というところである。
しかし、それら一つ一つの言葉について、私は特に説明を加えなかった。説明するまでもなく明らかだと考えたからである。だが、その後である人から、「なぜ、<無知>が罪なのか」という疑問をメール上でぶつけられてハッとした。確かに、このリストの中で「無知」だけは知的な能力に関係していて、他の言葉とは感じが違う。不審に思われたのも無理はない。その人は続けてこう書いていた。「無知とは、律法を知らないという意味なのか? 無知なまま、<知らないのだからしょうがないではないか>と開き直ること(学ぶ姿勢がない、傲慢)がいけないのか」。この話題を巡って、インターネット上では興味深い意見が交わされた。その内容を紹介したい。
ある人はマザー・テレザの「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」という言葉を引用しながら、大よそ次のような意味のことを書いていた。――「無知」とは、「そこに苦しんでいる人がいて、その人のために何らかの行動を起こさなければならないのに、知らんぷりをする、あるいは知らないままにしておく、もしくは敢えて知るための努力をしない」ということではないか。このような「無知」は罪なのだ、と。
また、ある人は、<全体を一つの体として>見る考え方を『コリントの信徒への手紙』から学んだと述べた後で、こう書いた。――「知らない所で起こっていることも、いつかは私のことになる・・・普通、病気になる前に、<ちょっとおかしい>と休んだり、自然治癒力が働いてくれたりする。でも、その感覚が鈍くなっていたり・・・それを無視したりすると、動けなくなった時には手遅れで・・・手術しても新薬を投与しても治癒には向かわない」。この人によれば、そんな時、体のある部分が「助けてー」という悲鳴を発しているのだ、という。その声を聞かずにいれば命に関わる。それと同じで、社会のどこかで助けを求めて叫んでいる人がいるのにそれを聞こうとせず、知ろうともしないことが「無知」で、これは社会にとって致命的だ、というのである。私は、これらの言葉からとても大切なことを学んだ。
ところで、「無知」と訳されたギリシャ語は「アシュネトス」である。辞書には「理解を欠くこと」とある。ただ、用例が少なく、『ローマの信徒への手紙』では3箇所に出て来るだけだ。その内、1章21節は「心が鈍く」と訳されている。福音書では、マルコ7章18節の「物分りが悪い」、マタイ15章16節の「悟らない」以外に用例はない。従って、決定的なことは中々言えないが、この「アシュネトス」は単に「物事を知らない」というだけの意味ではないようだ。そこには「理解していなければならないことに対して鈍感である」というニュアンスがある。その意味で「無理解」(岩波版新訳)が適切であろう。他者の苦しみに対する鈍感・無理解が「罪」なのである。
さて、今日のテキストである『フィリピの信徒への手紙』1章3節以下に眼を向けよう。ここには、他者に対する鈍感・無理解とは全く正反対の世界がある。古来、この手紙は「喜びの書簡」と呼ばれているが、パウロはフィリピの信徒たちに対して、「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」(3節)と書いて、喜びと感謝の気持ちを溢れさせている。
私は先に、他者の苦しみに対して鈍感であること・無理解であることは「罪」だ、と言った。だが、他者の喜びに対して無頓着であることも「罪」ではないだろうか。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマ12章15節)というのが、人間の本来の関係なのである。
主イエスは、貧しい人々や病人の苦しみを理解し、彼らと「苦しみを共に」された方であった。しかし、「喜びを分かち合う」方でもあった。この点は重要である。病人を癒されたとき、彼はその人と共に心から「良かった!」と感じたに違いないし、社会から差別された人々と一緒に食事をした時は、大いにその宴会を楽しんだのである。そのために、「大食漢で大酒飲みだ」(マタイ11章19節)という評判が立つほどであった。まして、一人の罪人が悔い改めた時は、その喜びを最大限に表現して、「99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15章7節)と言った。
だが、主イエスが人々と喜びを共にしたのは、単に病気が良くなったからでも、一緒にたっぷり飲み食いできたからでもなく、彼らが「神の支配」という新しい現実の中にいると信じたからであった。パウロは、そのことを今日の箇所で「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」(5節)と表現したのである。それが喜びの根拠なのだ。パウロにとってフィリピの信徒たちは、共に「福音にあずかった」者たちであり、「共に恵みにあずかる者」(7節)であり、「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となる」(10節)という約束の下にある人たちなのであった。フィリピの人々だけが特別なのではない。私たちはすべての人をそのように見るべきなのだ。そして、それには確かな根拠があるのである。