2007・10・28

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「信仰によって義とされる」

村上 伸

ローマ3,21-28

 今週の水曜日(10月31日)は「宗教改革記念日」である。1517年、マルチン・ルターがヴィッテンベルク「城教会」の扉に『95か条の提題』を張り出したのがこの日だ。そのことにどんな意味があったのか? 今日は先ず、その経緯を説明したい。

 その頃、ローマ教会はサン・ピエトロ大聖堂の建築に必要な莫大な資金をドイツの富豪フッガー家から借りたが、中々返済できずに困っていた。そこで、「免罪符」なるものをヨーロッパ各地で売り出したのである。

 今はもうそんなことはないが、中世の教会は次のように教えていた。――「大罪」を犯した者は死んでから地獄に落とされる。これは永遠の滅びであって絶対に救われない。これに対して「小罪」を犯した者は、「煉獄」で浄めの火に炙られる。だが、その苦しみから解放されて天国に行く希望もないわけではない。というのは、現世に残った遺族が死者たちのために一心に善行に励むならば、積み上げられた功徳が煉獄で苦しむ人々の救いのために回されるからである。これが「贖宥」の教理である。

 教会はこれを拡大して、善行の中には献金も含まれると解釈した。これが「免罪符」の起こりである。ドイツにはヨーハン・テッツェルという能弁な男がセールスにやって来た。有名な演説がある。「あなたがたの投げ入れる金貨がこの箱の中でチャリンと音を立てるや否や、煉獄で苦しむあなたがたの愛する両親や兄弟の魂は、直ぐに苦しみから解放されて天国に移される」。こうして、教会は大金をかき集めたのである。

 このことを聞いたルターは「おかしい」と思った。そもそも、聖書にそんなことは書いてない。そこで彼は、この問題を聖書に基づいて皆で考えようと呼びかけ、彼自身の考えを95の短い文章(テーゼ)にまとめて公表したのである。この『95か条のテーゼ』は、既にグーテンベルクの印刷術が発明されていたことも幸いして忽ち全ヨーロッパに知られ、宗教改革の大きな「うねり」となって行った。その後の改革運動の中には確かに行き過ぎもあったし、足りない点もあった。だが、とにかく世界は動いたのである。たった一人の人の勇気ある行動が世界を変えた一例だ。

 もう一つ、ルターの優れた業績に触れておかなければならない。それは、彼が有名な「神はわがやぐら」をはじめ、多くの讃美歌(コラール)を作ったことだ。今日の礼拝では、ルターだけでなくジュネーブの改革者カルヴァンと関係ある歌も二、三歌われる。こういう形で、宗教改革の貢献を音楽的にも記念するわけである。

 今日の説教のテキストとして、私はローマの信徒への手紙3章21-26節を選んだ。ルターがパウロの言葉から学んだ核心部分がここに表れていると思うからだ。

 ここでパウロは人間の罪の現実について述べている。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(22節)。この場合の「罪」は、単に法律に違反する「犯罪」のことではない。しかし、単に「心の問題」というのでもない。その両方とつながっている。罪とは、心も体も含めて私たちの人間関係を歪め・破壊する在り方のことである。パウロはそれを、1章29-31節で具体的に描き出した。すなわち、「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知*1、不誠実、無情、無慈悲」

 ここに書かれた罪の諸相は、基本的には昔も今も変わらない。だが、現代においては、罪はさらに肥大化している。自分勝手な欲望を満足させるようとするむさぼりはグローバルな規模で燃え盛り、政治・経済など社会のすべての分野であらゆる不義欺きが横行し、社会的弱者に対しては国も企業もますます無情・無慈悲になった。多くの人が悪意に満ち邪念にあふれ悪事をたくらむだけでなく、些細な理由から直ぐに殺意を抱き、簡単に人を殺す。テロと報復戦争は言うに及ばない。

 だが、罪にはもっと深刻な問題がある。最近、私たちの国では、司法や警察など人の罪を裁いて糺すべき立場にある人々が、恥知らずな犯罪のゆえに裁かれるケースが非常に目立つ。「他人のことは言えない」のだ。この点も、パウロは2章1節で掘り下げた。「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしている」。罪は、一部の人だけの問題ではない。裁かれる側の人はもちろん、裁く側の人をも、さらには「神の義」に達しようとして真剣に努力を重ねている人さえ支配している。すべてを呑みこむブラックホールのようだ。若き日のルターが悩んだのも、「人は、罪を犯している」という罪の現実を思い知らされたからであった。彼は絶望する。

 だが、人はいつまでも絶望したまま放り出されてはいない。その頃、彼が修行に励んでいた修道院のシュタウピッツ院長は、ルターが打ちのめされたように暗い顔をしているのに気づき、「君は自分がダメだということばかり見ている。キリストと呼ばれるあの方を見上げなさい」と忠告したという。このことがきっかけになって、間もなく光が射して来た。『ローマの信徒への手紙』1章16-17節と出会ったのである。

 「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されています」。この言葉が、彼を罪の支配から解放した。罪に支配されているすべての人を、「神の恵みにより無償で義とする」(24節) イエス・キリストの愛。福音とは、このことである。キリストは、「その血によって信じる者のために罪を償う供え物」(25節)となって下さった。この福音が、「イエスを信じる者を義とする」(26節)のである。これこそ、今日、私たちが聞くべきメッセージではないか。



*1 補注 「無知」と訳されたギリシャ語はむしろ「無理解」と訳すべきで、最近の岩波版の新訳ではそうなっています。他者に対する無理解、ということです。

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