今日の箇所で、イエスは言われた。「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている」(21節)。先ず、この言葉に注目したい。
これが「十戒」の第六戒「殺すな」を受けていることは明らかである。しかし、「人を殺した者は裁きを受ける」という言葉は「十戒」そのものの中には見当たらない。それに最も近いのは、出エジプト記21章12節の「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」である。そしてイエスは、「必ず死刑に処せられる」というところを「裁きを受ける」と言い換えた。恐らく意図的に。
モーセの時代、故意に人を殺した者は死刑に処せられた。だが、どんなケースでも死刑、というわけではない。出エジプト記21章13節には、「故意にではなく、偶然」に相手が死んでしまったような場合は(過失致死)、「逃れの町」に逃げ込めば死刑を免れるという例外規定がある。しかし、故意に殺した者は「必ず死刑に処せられなければならない」。それが当時の法律だった。それを、イエスは「裁きを受ける」と言い換えたのである。このことは何を意味しているのだろうか?
ここで私は想像力を働かせてみた。多分、こういうことではなかっただろうか。
――たとえ人を殺した者であっても、いきなり死刑にしたりせず、先ず裁きを受けさせる。むろん、この場合の「裁き」は西部劇の私刑(リンチ)の場面によく出てくるような、悪い保安官による形式的な宣告でもないし、ナチス支配下で行われたような仕組まれた「民族裁判」でもない。「神の裁き」である。イエスは、「人を殺した者は死刑」という単純な応報刑論を取らない。先ず神の裁きに委ねるべきだ、と考えたのではないか。戦争の場合も同じだ。ある国がけしからんと言って、「天に代わって不義を討つ」という考え方をしてはいけない。裁くのは神である。イエスが「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26,52)と言ったのは、そういう意味である。
イエスは、言うまでもなく、「殺すな」という第六戒を神の命令として厳しく受け止めていた。「人を殺した者は裁きを受ける」と言われたのは、「第六戒」を甘くするためでは決してない。その反対である。それは、22節を見れば分かる。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。
ここで、イエスは「殺すな」という第六戒を拡大解釈している。だが、この拡大解釈は、イエスが第六戒を、悪口雑言といった日常の些細な事柄にまで及ぼして考えるほど真剣に受け止めた、ということの現われなのである。「余りに極端で神経質な拡大解釈だ」という感想は当たらない。
そのことに関して、ユダヤ人の聖書学者ピンカス・ラピーデから教えられたことがある。彼によれば ―― たとえば、相手が腹を立てて「ばか」とか「愚か者」とか言ったとする。関西で「アホ」と言われても、全く気にする必要はない。そういう場合もあるが、その言葉が本当に悪意に満ちた、汚い罵詈雑言として使われた場合、自分の顔からスーッと血の気が引いて行くことがある。そういう時、ユダヤ人は、「血が引く」ということは自分の「血が流れる」のと同じだと考えた、というのだ。とすると、その時点で「殺し」は既に始まっていると言わねばならない。
戦争の場合も同様である。他の民族や国家に対して悪意ある言葉を投げつけることは、既に戦火を開いたのと同じことなのである。
「だから」、とイエスは23-24節で続ける。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。
誰かがあなたに対して反感を抱き、そのために彼との関係が悪化していることに気づいたならば、時をおかずに、先ずあなたの方から先方に出向き、和解の手を差し伸べなさい、とイエスは言うのである。彼はあなたの「敵」ではなく「兄弟」なのだ。しかも、関係が悪化したのはあなたの側に原因があったのかもしれない。だから、相手に責任を負わせようとはせず、先ずあなたの方から行って兄弟と和解しなさい。
ここで、「兄弟」という言い方について、一言補足しておきたい。マタイ5章44節以下に「敵を愛しなさい・・・あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と言われている。私たちは、善人と悪人・正しい人と正しくない人・敵と味方とを区別するが、そのような区別は、神(天の父)から見ると全く存在しない。太陽は、敵・味方の区別なくすべての人の上に昇るし、雨は正・邪の区別なくどのような人の上にも降る。どんな人間も、神が造られたこの世界の仲間なのだ。イエスが「兄弟」と言われたとき、そういう意味が込められていたのである。
さらに、イエスは言う。「その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(24節)。
「供え物を献げる」という行為は、ユダヤ人にとっては自己の存在証明にも等しい重要な宗教的行為である。だが、和解によって敵対関係を平和の関係(シャローム)に変え、「共生」を実現することは、それよりも重要だ、とイエスは言うのである。敵対関係(戦争)の中では、宗教的行事さえも不可能になる。だから、和解を優先させなければならない。相手のせいにして争っている暇はない。「早く和解しなさい」(25節)。あなたが敵対している相手と共に滅びる時が迫っている。だから、あなたが和解のための先手を取れ! このイエスの教えは、今日的な意義を持っているのではないか。