2007・9・9

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「神の相続人」

村上 伸

箴言3,1-6;ローマの信徒への手紙8,1-17

パウロは今日の箇所で、「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」5-6節)と言っている。続けて、「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」13節)とも言う。ここでは、二つの互いに対立する生き方が紹介されている。一つは死に至る「肉」の道であり、他は命とシャロームに通じる「霊」の道である。

彼は、この二つの道を紹介しながら、人間の中には「霊と肉」、あるいは「精神と肉体」という互いに矛盾対立する二つの原理がせめぎ合っている、ということを示している。「精神」は高尚なことを思っていても、「肉」の衝動に動かされることも多い。これは、形や程度は違っても、誰でも経験することだ。

パウロ自身、「わたしは、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」7章18-19節)と言い、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」24節)と嘆いている。

紀元前第4世紀のギリシャの哲学者プラトンは、これとは違う形で人間の内にある二つの原理の「せめぎ合い」を考えた人である。つまり、我々は普通、視覚・聴覚・触覚など、生まれつき自分の肉体に備わっている感覚によって個々の事物を認識するのだと思い込んでいるが、それらは本当に存在しているわけではなく、そう見えたに過ぎない。むしろ、それらの原型である普遍的な理念(イデア)こそが真の実在であり、それは精神によってのみ認識される、というわけである。それ故、彼にとって肉体は精神の邪魔になる。肉体は、いわば「精神の牢獄」だ。人間は肉体を持っているがために却ってそれに縛られ、イデアの自由な高みに飛翔することができない。だから、真理を知るためには、感覚に頼らず、肉体のしがらみを断ち切り、精神を研ぎ澄まさなければならない。こういう形で、彼は「霊肉二元論」を唱えたのである。

このように肉体と精神を厳しく区別するプラトンの考え方は、第4世紀のキリスト教指導者アウグスティーヌスを介して西洋のキリスト教に入り、大きな影響を与えた。その結果、西洋では肉体やそれに関係するすべてのことを精神とは区別し、一段低いものと見るような傾向が生まれたと言われる。

だが、聖書にはもともと、そういう意味での霊肉二元論はなかったのだ。旧約聖書では、「肉」(バーサール)とはもともと単純に動物や人間の肉体、あるいは皮膚のことであった。それは神が恵みによって創造されたものであって、決して否定したり軽蔑したりすべきものではない。ただ、肉体を持って生きる人間は、一緒に暮らしている羊や山羊や牛たちと同じように、いつかは短い一生を終えて死ななければならない。死ねば、肉は腐って土に帰る。これは旧約時代の人々の原体験であったから、肉は当然「過ぎ去るべきもの」・「弱いもの」と考えられた。創世記6章3節では、主なる神が「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから」と言ったというが、これはそういう意味なのである。

この人間観は、基本的に新約聖書に引き継がれた。肉(サルクス)は過ぎ去るべきもの・壊れ易いもの・弱いものである。8章3節で、パウロが「肉の弱さ」と言っているのはそれだ。だが、見逃すことが出来ないのは、新約には「罪深い肉」(3節)という見方が加わったことである。肉は罪深い性質を持っている。ガラテヤ書5章19節以下に「罪のリスト」がある。「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」が列挙されているが、これらはすべて「肉の業」なのである。

だから、パウロは今日のところで「肉の思いは死である」6節)とか、「肉の思いに従う者は、神に敵対している」7節)、また「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」8節)と言うのである。「肉に従って生きる」12節13節)ことは許されない。我々は「霊に従って」5節)生きなければならない。

では、「霊」とは何か? それは、人間に生まれつき備わっている精神的能力ではない。この点が、ギリシャ哲学と違う。むしろ、それは外から神の恵みによって新しく我々に与えられ我々の内に「宿る」命の力である。「神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」9節)。

これをもっとはっきりさせたのが11節の言葉であろう。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。これによって、「霊に従って生きる」ということの内容が明らかになる。それは、十字架につけられ、復活されたイエス・キリストを、また、「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送った」3節神を、ひたすら見上げて生きることに他ならない。

この神の霊が、弱く・罪深く・死ぬはずの我々の肉に、全く新しい意味と輝きを与えるのだ。我々には「神の子」14節)であることが約束され、神を「アッバ、父よ」15節。アラム語の幼児言葉=パパ)と呼ぶことが許される。それは、ガラテヤ書4章1節以下に言われている意味において、「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人」17節)であることを意味するのである。



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