今日は聖書の言う「罪」について考えたい。聖書の「罪」(ハマルティア)は、単に法律上の「犯罪」だけではなく、もっと広い意味で使われる言葉である。「踏み外し」とか「的外れ」という意味だ。人間の在り方・生き方が根本のところで歪んでいて、間違った方向へ向かっていることを指すのである。
旧制の高等学校に入りたての頃、私は18歳だったが、ある若い教師が「哲学」の授業の最中に、突然、「罪とは何か?」という問題を持ち出したことがある。彼は、時々このような難問を我々に投げかけて一緒に考えようとした。その時も我々学生は考え込んでしまった。いくつかのやり取りがあったが、その中で、前年のクリスマスに洗礼を受けたばかりの私は、おずおずと手を挙げて「神に背くことです」と答えた。その時、私は神の戒め(たとえば「十戒」)に違反することを考えていたと思う。だが彼は、私の答えには満足しなかった。余りに紋切り型の言い方だと思ったのだろう。
一体、罪とは何だろうか? 「神に背く」、あるいは「神の戒めに違反する」と言うだけでは十分ではない。といって、いくつかの具体的な事例に狭く限定するわけにも行かない。罪にはさまざまの側面があるからである。
夏目漱石の『こころ』や、三浦綾子の『氷点』といった作品は、日本文学には珍しく「罪」、あるいは「原罪」を問題にしたと言われるが、それは主として個人の内面に関わる「心の問題」であった。他方、旧約の預言者たちは「社会悪」としての罪を鋭く抉り出して悔い改めを迫った。「罪」の意味内容には、大きな幅がある。
若い頃の私は、自分の中にうごめく肉体的な欲望を「罪」と感じていた。今日のテキストの直後に、パウロの有名な言葉が来る。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(7章19-20節)。この「自分の望まない悪」とか、「わたしの中に住んでいる罪」を、あくまでも個人の内面の問題として理解する人は少なくないであろう。キールケゴールという哲学者は、「絶望が罪である」と言った。
しかし、私はある時、罪が「関係概念」であるということを教えられて目を開かれる思いがした。罪とは自分ひとりの内面の問題というよりは、他者との関係の問題だというのである。あるべき関係を歪め、互いに信じ合い・愛し合う関係を破壊するもの。それが罪なのだ。だから、バルトという神学者は罪を「高慢」に代表させた。
創世記に「堕罪」の物語がある。アダムとエバが蛇に誘惑されて、神が禁じられた「善悪を知る木の実」を食べたために堕落したという話だ。この神話は、人間の根源的な罪を示唆するものとして実に興味深い。善悪を「知る」とは、善悪を「支配する」ことを意味するが、人間はどうしても「神のように善悪を知る(=支配する)」(3章5節)ことを求めたがる。独裁者は特にそうだ。あたかも自分が神であるかのように、何が善であり・何が悪であるかを自ら決定し、支配しようとする。ヒトラーはその典型であった。だが、これは彼に限ったことではない。すべての人に、もちろん我々にも、このような「自己絶対化」の危険がつきまとう。そして、これこそは「諸悪の根源」なのだ。地球環境の危機も、人間の高ぶりの罪が生み出した結果だと言えよう。
罪について、もう一つの面を指摘したい。福音書には「罪人」と呼ばれる人たちが出てくるが、実は、その大部分は周りの人々によって「罪人」というレッテルを貼られた人たちであった。貧しさの故に神殿に捧げ物を持って行くことが出来ない人や、生活苦のためにやむなく売春のような「汚れた」商売をしている人は、律法に違反したという理由で「罪人」と呼ばれた。我々の社会には、そのように罪人を「作り出す」ところがある。ボンヘッファーが、多くの牧師は先ず人を罪人に仕立て上げて絶望に追い込み、それから救いを提供すると批判して「坊主臭さ」と皮肉った通りだ。
このように、罪には実にさまざまな側面がある。そして人間は、今日の箇所にあるように、これらの「罪に支配されて」(6節)、「罪の奴隷」になっている、とパウロは言うのである。これは、彼の実感であったろう。
だが、罪は「どうしようもない」運命ではない。パウロは「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」と言い、それは、「罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためだ」(6節)と言う。これはどういう意味か?
主イエスはただ愛のために生き、出会うすべての人を真実に愛されたのに、この世はこの真実な方をまるで悪者のように裁き、十字架にかけて殺してしまった。そして、このことによって自らの罪をさらけ出したのである。十字架は、イエスという個人の身の上にふりかかった偶発的な事故などではなく、世界の罪の正体を暴露する出来事であった。そのことによって、罪に支配されていた我々の古い自分は根本的に否定され、「キリストと共に十字架につけられた」(6節)。つまり「キリストと共に死んだ」(8節)のである。そして、これが我々を罪から解放する。
その上、主イエスは三日目に死人の中から復活した。これもイエス個人にだけ起こったことではない。この世界のすべての人に関わる出来事である。「キリストが・・・死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きる」(4節)。
それ故、イエス・キリストの十字架と復活は、この世界の、そしてその中に生きている我々一人ひとりの、生き方を既に決定している。そうである以上、我々は「罪に対して死に・・・神に対して生きている」(11節)。ここにこそ、解放がある。