2007・5・27

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「世界に愛がやってくる」

村上 伸

使徒言行録 2,1-6

  五旬祭の日、つまり過越祭から50日目に(50はギリシャ語で「ペンテコステー」)、使徒たちはエルサレムにいた。復活された主イエスが天に上げられる直前に、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1章4節)と命じられたからである。彼らは言われた通りにこの町に残り、市内のある家に集まっていた。すると、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2節)。これは、神の顕現に伴う現象で、モーセもヨブも同じような経験をしている。

  そのとき、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3節)という。「舌」(グロッサイ)は明らかに言葉と関係があり、続いて起こった「言葉の奇跡」を暗示している。「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。

  ここで、私たちは「バベルの塔」の物語を思い出さないだろうか? 大昔、人々は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(創世記11章4節)と言って、壮大な計画を立てた。欲に駆られて身のほど知らずになったのである。その時、何が起こるか。神は、「彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」(7節)と言われて、その不遜な企てを中止に追い込まれた。言葉の混乱。これは、互いの思いが全く通じなくなるという意味での、最も深刻な混乱である。

  木下順二の『夕鶴』は、この混乱を見事に描き出した作品だ。鶴の化身である「つう」は、傷ついて苦しんでいたところを助けてくれた「与ひょう」の優しさに打たれて彼の妻になり、二人で幸せに暮らしている。彼女は感謝の気持ちをこめ、秘かに自分の羽を使って素晴らしい「鶴の千羽織り」を織り上げ、「与ひょう」に贈る。ところが、欲の深い都の商人たちが「千羽織り」の商品価値に目をつけ、もっと織らせろと「与ひょう」を焚きつける。彼は次第に「都」だの「金儲け」だのと言うようになる。そのとき、「つう」は身をもむようにして嘆くのである。「分からない。あんたのいうことがなんにも分からない。口の動くのが見えるだけ。声が聞こえるだけ。だけど何をいってるんだか・・・ああ、あんたは・・・とうとうあたしに分からない世界の言葉を話し出した・・・ああ、どうしよう、どうしよう、どうしよう」。

これは、現代社会に対する最も鋭い批判ではないだろうか。私たちの世界でも、このように言葉が混乱している!

  だが、ペンテコステの日、使徒たちは「聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。つまり、エルサレムに集まっていた、世界各地から来た人々が、「だれもかれも自分の故郷の言葉が話されているのを聞いた」(6節)というのである。神の霊によって、バベルの塔以来世界を覆い尽くしてきた「言葉の混乱」は終わる。すべての人が互いに通じる言葉を話すことが出来るようになる。「言葉の奇跡」が起こる。これが今日のメッセージなのである。

  人々は、使徒たちが「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞いた」(11節)という。それは、要するに「愛」の言葉であった。神が私たちを愛しておられる、私たちも互いに愛し合って生きるのだ。この慰めに満ちた真理。勇気を与える言葉。それが私たちの世界に来るのである。世界に愛がやってくる。

 

  最後に付け加えたい。ペンテコステは、もともとはユダヤ教の「七週祭」であった。この祭に関する戒めは感動的である。「あなたは…息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを思い起こし、これらの掟を忠実に守りなさい」申命記16章11節)。この戒めの心が、ペンテコステの日に実現したのであった。世界に愛がやってくる!



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