2007・4・1

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「ろばの子に乗る主」

村上 伸

ゼカリヤ書 9,9-10;ヨハネ福音書 12,12-19

 今日から「受難週」(聖週間)が始まる。今日は、既に死を覚悟したイエスがエルサレムに入られた日、そして今週の金曜日は彼が十字架につけられてその高貴な生涯を終えた「受苦日」である。

 さて、イエスがエルサレムに入られたこの日、表通りでは一寸したハプニングがあった。祭に来ていた大勢の群衆が、イエスがエルサレムに来られると聞き、ナツメヤシの枝を持って迎えに出て、繰り返し大声で「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」(13節)と叫んだのである。

 ナツメヤシという植物は、ギリシャ語では「フォイニクス」で、口語訳聖書では「しゅろ」(英語ではPalm)と訳されていた。「棕櫚の聖日」(Palm Sunday)という呼び方もそこから来るのだが、これは日本で「棕櫚」と呼ばれている木とは全く違う。『広辞苑』によれば、ナツメヤシはヤシ科の常緑樹で高さは20mに達し、中近東では多くオアシスの近くに自生しているという。果実はミネラルを豊富に含んでいて甘い。生食もいいが、干して保存したりジャムに加工したりする。砂糖も作れるし酒の原料にもなる。搾りかすは駱駝の餌にする。幹の部分は建築材料に使われ、葉や樹皮は乾燥させて籠や網を造る。捨てるところがない。砂漠の民にとっては欠かせない木である。

 とくに、一年中緑色をした葉は1.5mぐらいの長さで、鳥の翼のような形をしている。立派なものだ。だから、ユダヤでは「仮庵の祭り」(収穫感謝) の装飾用によく使われた。また、凱旋する王を迎える「勝利の祝祭」にも用いられた。今日の箇所には、群衆がこのナツメヤシの枝を手に持って振りながらイエスを歓迎したとある。王の凱旋行列を迎える時と同じ作法に従ったのかもしれない。

 そのとき群衆が叫んだ「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」(13節)という言葉は、詩編118編25-26節の引用である。この詩は元々、いわゆる「ハレルヤ詩編」(113-118編)の一部で、神を賛美すると共にその助けを求める詩であった。「ホサナ」とは、「どうか私たちをお救い下さい」という意味だ。恐らく群衆は、イエスこそダビデ王国の栄光をこの地上に再現させて下さる方に違いないという期待を抱き、王を歓迎する時のやり方でイエスを迎えたのであろう。

だが、この群衆の期待は外れたと言うべきだろう。というのは、「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」(14節)からである。イエスがダビデ王国の栄光をこの地上に再現させる方であるならば、あの偉大な軍事指導者、ダビデのように、完全武装に身を固め、猛々しい軍馬に跨って威風堂々と入城して来なければならない。ところがイエスは、小さなロバの子にちょこんと座り、トコトコと歩いて来たのだ!

 ロバという動物は、今やこの国ではほとんど見かけない。動物園や風変わりな牧場などに辛うじて生存するだけだ。しかし、中近東やバルカン、あるいはアジアの奥地では、今でも素朴な農民たちに愛されている。私は子どもの頃、中国東北部(当時の満州)に1年ほど暮らしたことがあるが、その頃、度々ロバと出会った。小さな体で、ウサギのように耳が長く、柔和な目をしている。私はそのとりこになった。「ロバを飼いたい」と母親に言ったことがある。無理だということは分かっていた。だが、今でも、どこかにその気持ちは残っていて、ロバの木馬でもいいから「欲しいな」と思うことがある。何年か前、ヨーロッパのどこかの博物館でそういう木馬を見た。足には車輪がついている。イエスの人形を上に乗せて、村を引っ張って歩いたものらしい。教会学校の子どもたちと一緒にそういう木馬を作って、教会の周りを引っ張って歩いたらどんなに素敵だろう。これが、今の私の夢である。

 さて、本題に戻ろう。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」(15節)というのは、ゼカリヤ書9章9節「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗って」という言葉の引用である。真の勝利者は決して高ぶらない。柔和で謙虚なロバに乗って来る。これに続けて預言者ゼカリヤは、この真理を非常に明確な形で言い現した。「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」。この世界を本当に善く治め、真の意味で支配する者は、戦車や軍馬や弓といった軍事力には頼らない。むしろ、そういうものを廃絶する。そうでなければ、「真の平和」を告げることは不可能だ、というのである。

 イエスが『山上の説教』の中で、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5章5節)と言われたことに注目しよう。ある注解者は、この「柔和な」というギリシャ語(プラエイス)を、「力づくでない」と翻訳した。相手を「力づくで」自分に従わせるというやり方では、祝福された将来は決して来ない。「力づくでない」人にこそ将来は約束される。そして、イエスご自身、そのような方であった。

 彼は、今、柔和なロバに乗るという行動が象徴するように、あくまでも柔和に、つまり、暴力や武力で相手を自分に従わせるというやり方を決してしない方として、終焉の地エルサレムに入る。だが、それは容易なことではない。

 イエスは最後の一週間、裏切りと辱めと恥と十字架刑、要するにあらゆる精神的・肉体的な苦痛に耐えて、その中で「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さ」(ペトロ一2章23節)なかった。そして「正しくお裁きになる方に」任せておられた。柔和であるということは、そういうことだ。この道を通ったイエスにこそ、復活の輝きが与えられたことを心に刻みたい。

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