2007・3・11

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「イエスに従うということ」

村上 伸

列王記上19,19-21;ルカ福音書9,57-62

 「イエスに従う」とはどういうことか? 今日のテキストで問題になっているのはそのことである。3人の人物が登場する。

最初の人は、マタイによれば律法学者だが、自分から積極的に弟子になることを志願して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」57節)と申し出る。しかしイエスは、その人にはどこか「甘い」所があることを見抜き、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」58節)と念を押す。二番目の人は、イエスの方から「わたしに従いなさい」59節)と招いたのである。しかし、この人は、「まず父を葬りに行かせてください」59節)と条件を出した。息子としては当然の要求であるが、イエスはひどく冷たい言葉でこれを斥ける。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」60節前半)。最後の人は、一応自分から進んで「主よ、あなたに従います」と約束したのだが、その前に「家族にいとまごいに行かせてください」61節)と注文をつけた。これも人間の感情としては当たり前のことだと思うけれども、イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」62節)と厳しく叱責する。

要するにこの3人は、「イエスに従う」ことを自分なりに真剣に考えてはいたが、それは「弟子入りする」くらいの気持ちであった。事実、「従う」という原語(アコルーテイン)は、その意味で使われることが多い。

日本でも、大工や板前などの職人、あるいは能や歌舞伎などの芸能、何でもそうだが、一人前の技能を身につけたいと思う人は、優れた親方に「弟子入り」するのが普通である。そして弟子になったら最後、親方の言うことには何でも従わねばならない。ある力士が、「親方」という字は「ムリ偏にゲンコツ」と書くのだ、と言っていたが、とにかく絶対服従である。最初は下っ端の雑用をする。そうした仕事をこなして仕えながら、出来るだけ親方の近くにいて「見よう見まねで」その卓越した技術を覚える。よく言われるように、親方の「芸を盗む」のである。

古代イスラエルでも、預言者や祭司、律法学者には弟子たちがいた。彼らが同じような仕方でシゴかれたかどうかは知らない。だが、預言者エリヤがシャファトの子エリシャを弟子にしたときの話(列王記上19章19節以下)を読むと、似た面もある。エリシャはその時、畑を耕していた。12軛の牛を使っていたというから豊かな農家だったのだろう。エリヤはなぜかこの青年に目を留めて「自分の外套を彼に投げかけた」。つまり、預言者の象徴である毛皮のマントをエリシャに投げかけることによって後継者に指名したのである。全く突然に、相手のほうの事情は考えもせずに、強引に誘ったのだ。これに対してエリシャは、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」20節)と言った。ここは、ルカの話に出て来る最後の人物とよく似ている。ただ、エリヤはこの若者を叱らない。「行って来なさい」と言い、「わたしがあなたに何をしたというのか」と付け加えた。この言い方は意味深長のように聞こえるが、「あなたが納得の行くようにしなさい」という程度の意味らしい。つまり、この青年の願いを快く認めたのである。イエスはそこが違う。イエスが弟子たちに期待した「服従」は、一般に考えられているよりもずっと厳しいものであった。

エリシャは一旦家に帰り、「一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた」21節)。つまり、家族や近所の人たちと別れの宴を張って、いわば「世間の義理」を果たした。多分、この後で父母に別れの挨拶をしたのであろう。「それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた」。彼がエリヤに従った時のやり方は、常識的でまことに行き届いていた。

だが、イエスはそういう常識を一切拒否する。一体、それは何故なのだろうか?

こういう場合に先ず「父親の葬式を挙げる」とか、「家族に暇乞いをする」ということは、無論、大切である。イエスは「そんなことは無意味だからやるな」と言っているのではない。親子やきょうだいのつながりは、人間として生きて行くためには欠かすことが出来ない。このことは、イエスも十分に認めていた。

だが、ここに考えるべきことがある。ふつう、親子・きょうだいの間柄は、すべてに先立って自然に生まれる原初的な関係だと言われている。その通りだろうが、よく考えてみると、この関係もそれを成り立たせる根拠がなければ始まらない。根拠とは、初めに神がすべてのものを、とりわけ私たち一人ひとりを造り・愛し・保持しておられるということである。それがなければ、あらゆる人間関係も成立しない。

イエスは「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」60節後半)と言われた。「神の国」。それは、「神がこの世界を支配される」ということである。今は悪が支配しているように見えるかもしれないが、やがて、神の真実の支配・愛の支配が来る。

先週のニュースで、ガーナの独立記念日の様子を見た。私は1977年に2週間この国に滞在したことがあるので懐かしかったが、独立して50年経っても人々の暮らしは一向に良くなっていない。悲しかった。アフリカの多くの国で見られるように、植民地支配が終わったと思うと次にそれ以上に悪い政権が出現する。政治家や役人の汚職も後を絶たない。アフリカだけでなく、これは多くの国々における悲しい現実だ。

だが、いつか必ず「神の国」が来る。そして、「互いに愛し合いなさい」というイエスの戒めが実現される。このイエスの約束が暗い世界に生きる私たちの希望なのである。そして、これがあらゆる人間関係を成り立たせる根拠なのだ。「イエスに従う」ということは、このメッセージを証しして生きるということに他ならない。

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