2007・2・25

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「『持ち場』を越えて」

村椿 嘉信

イザヤ書55,6-7;マタイ福音書15,21-28

 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」。イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。そのとき、娘の病気はいやされた。

 主イエスは、苦しんだり悲しんだりしている人たち、助けを求めて叫んでいる人たちが世界中にいることを知っていた。小アジアにも、ギリシアにも、ローマにも、その当時のローマ帝国内のあらゆる地域に、あるいはそれを超えて全世界のあらゆる場所に、「飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれている」人々がいることを知っていた。しかし今から約2千年前に、ひとりの人間としてこの地上に生まれ、活動した主イエスは、自分が、あれもこれも、すべてを行うことができるわけではないことを自覚していた。主イエスは、「自分に何もかもできるわけではない。そもそも自分が何もかもすることを、神さまが望んでいるのではない」と考え、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と語ったのではないか。

 イエスが「ティルスとシドンの地方に行かれた時」、その地に生まれたひとりの女性が、病気にかかった娘のいやしを求めてイエスのもとに来た。しかしイエスは、その女性の願いに、すぐに応じようとしなかった。私は、この部分を読むと、イエスは、そして弟子たちも、何て冷たいのだろうと考えてしまう。また最後にイエスが娘をいやす部分を読みながら、どうして、もったいぶることなく、すぐにいやさなかったのだろうかと考えてしまう。しかしイエスは、冷酷な態度をとったのでは決してなく、むしろ悲しい顔をしながら、「自分に何もかもできるわけではない」と考え、「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と答えたのではないか。

 イエスは、自分が「イスラエルの家の失われた羊のところに遣わされている」という自覚を持っていた。「失われた羊」とは、「飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれている」人たち(マタイ9章36節)、あるいはイエスのたとえ話の「迷い出た羊」のような人たち(18章10節以下)だと考えることができる。「迷い出る」と言っても、決して、自分から好きこのんで、「群れ」から脱出したのではなく、いじめられたり、居づらくなって、出ていくしかなかった人たちのことだろう。排除されたり、疎外されたりしている人たちのところに、イエスは出かけていった。その人たちが生きている場所こそが、イエスの遣わされた「持ち場」だった。イエスは、イスラエルの家の失われた羊のために、全力を尽くそうとした。

 イエスが私たちに教えたことは、イエスが自分の遣わされた場でしたことを、私たちもまた、それぞれの遣わされた場で、それぞれの「持ち場」で為すということだった。イエスはそのような場に私たちを導いている。そしてイエスは、そのような私たちに、神が豊かな力を与えてくれると約束している。イエスの弟子たちや、使徒パウロも、それぞれの「持ち場」で、イエスに従い、イエスの言葉に生きた。

 ティルスやシドンの人たちのことも、神は考えているはずである。いずれ誰かが遣わされるはずである。イエスが、その人たちのことまで、考えなければならない‥‥ということはなかったはずである。しかし病気の娘を持った女性にとっては、一刻の猶予も許されなかった。自分の目の前にいるイエスに、今、助けを願うしかなかった。イエスでなくても、娘の病気をいやしてくれる人がいるかもしれない。でも、誰が、どこにいるというのか。どうやってその人を探し出すことができるのか。だが実際に、イエスが自分の目の前にいる。そのイエスは、自分の娘の病気をいやすことができる。そうである以上、何としてでもイエスに自分の娘を助けてもらいたい‥‥。このように、この女性は判断し、必死になってイエスに叫び続けた。その叫びに、イエスは応じたのである。

 私たちにもそれぞれ「持ち場」が与えられている。それぞれ、神に与えられている「持ち場」、神に遣わされている「場」があるはずである。私たちは、自分がどこに立たされているのかを自覚し、その「持ち場」で全力を尽くさなければならない。

 私たちには、家族という「持ち場」が与えられている。特に幼い子どもがいる場合は、その子どものために全力を尽くさなければならない。親は、自分が食べるパンを誰かに与えることはできるが、子どもからパンを取りあげて、誰かに与えるということはしないだろう。自分の手でパンを手に入れることのできない子どもたちにパンを与えることは、親としての義務であると言えるだろう。また家族や、身近に、介護を必要としている人たち、たとえばお年寄りがいるような場合は、まずその人たちへの介護を優先して行わなければならないだろう。

 私たちには、社会の中でも、それぞれの「持ち場」が与えられている。神に遣わされている「持ち場」がどこなのか、神に与えられている「課題」が何であるのかを私たちは、聖書に学び、祈りながら、考えなければならない。社会が要求する「持ち場」と、神が遣わそうとしている「持ち場」が異なることもある。だから自分に与えられている「持ち場」がどこであるかを確かめ、その「持ち場」で全力を尽くすことが大切なことである。私たちには、あれも、これも、できるわけではない。それゆえ、できないことについては、正直に「できません」と言う以外にない。

 だけど私たちが、それぞれの「持ち場」で歩んでいるときに、助けを必要としているさまざまな人たちから声をかけられることがある。それらの人たちは、自分たちの歩んでいる場で問題を抱え、それを自分で解決できないから、身近に助けてくれる人がいないから、私たちに助けを求めて声をあげているのかもしれない。そのような声を耳にしたら、私たちは、すぐに「できません」とは言わずに、何かできることはないかと考えてみるべきではないだろうか。

 私たちにもできることがあるかもしれない。ちょっとしたことで、相手にとっては大きな助けになるかもしれない。助けることによって新たな出会いが起こるかもしれない。しかも自分が相手を助けるだけでなく、逆に、相手から自分が助けられるかもしれない。

 私たちは、たいていは、自分の「持ち場」で、自分の課題を果たすことに忙しくしている。それだけで、疲れている。そして、自分の「持ち場」のことさえ十分にできないのだから、それ以上のことなどできるはずがないなどと考える。でも私たちにとって大切なことは、それぞれの「持ち場」で自分の課題を果たしつつも、その「持ち場」というものを固定的なものと考えずに、私たちが「持ち場」を超えて、その周囲にいる人たちの声に耳を傾け、ともに生きようと努力することではないだろうか。そのときに、さらに新しい可能性が開かれることになるだろう。 

     (むらつばき・よしのぶ、沖縄教区石川教会牧師、二月二五日の説教を要約)

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