2007・2・4

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「この最後の者にも」

村上 伸

申命記 24,14-15;マタイ福音書 20,1-16

 「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、1日につき1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」(1-2節)。1デナリオンとは、当時、日雇い労働者の1日分の給料に当たる。日本円に換算すればどれくらいか? 本田哲郎『小さくされた人々のための福音』は、「5千円」と訳した。必ずしも正確とは言えないかもしれないが、大体の感じは掴める。

 9時頃になっても、まだ広場でぶらぶらしている人たちがいたので、主人は「ふさわしい賃金を払う」(4節)と約束してぶどう園に行かせた。12時頃と3時頃にも同じようにした。最後に5時頃に行ってみると、仕事にあぶれて一日中「立っている」(6節)人々がいた。「立ちん坊」である。そこで、彼らにも仕事を与えた。

 さて、夕方仕事を終わって賃金を払う段になった。主人は、先ず最後に雇われた人たちに5千円ずつ支払った。それを見た他の人たちは「しめしめ、最後に来た連中が5千円なら、俺たちはもっと多く貰えるに違いない」と皮算用をしていたが、期待に反して皆一律に5千円しか貰えなかった。「それはないよ!」と不平の声が上がった。「いちばんあとに来たこの連中は、1時間働いただけだ。わたしたちは一日の重労働と酷暑をしんぼうしたのに、同じあつかいとは」(12節、本田訳)。当然の言い分である。「同一労働・同一賃金」は、昔も今も社会の常識なのだ。

 私は30年ほど前に、シュトウットガルト近郊のぶどう園で収穫の仕事を体験させてもらったことがある。「トロリンガー」という品種で、ワインの品質を均一にするためには一日でその畑のぶどうを全部摘み取って仕込まなければならない。だから、仕事は朝早くから始まる。10月のよく晴れた日で、気温も上がり、日陰の全くないぶどう山で両手をベトベトにしながら摘むのは、予想を遥かに超える重労働だった。「一日の重労働と酷暑」と労働者たちは言ったが、その気持ちはよく分かる。

 ところが、不平を言った労働者に対して、主人は「あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと五千円の約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」(13節、本田訳)と答えたというのである。確かに、それは主人の自由かもしれないが、実際の労働現場で言う言葉としては乱暴すぎる。今後、こんな主人のために働く労働者はいなくなるのではないか。

 しかし、イエスがはじめに「天の国は次のようにたとえられる」(1節)と言われたように、この話は「天の国」、あるいは「神の国」の秩序に関する譬えなのであって、現実の社会における「雇用」や「賃金」の問題がテーマなのではない。この譬えは、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(19章30節と、20章16節)という言葉によって前後を囲まれていることが示しているように、「この世の価値は神の前では通用しない、逆転する」ということを告げているのである。

 この世で重んじられる「価値」を持つ者(権力者や金持ち)が、その価値の故に神に受け入れられるのではない。むしろ、この世ではなんら「価値」を持たない人々(罪人・汚れたと見なされる病人・貧しい人々)を神は真っ先に受け入れて下さる。これが「神の国の秩序だ」、とイエスは語る。深い慰めである。

 ある注解者は、後代のユダヤ教ラビの譬え話にこれとよく似たものがあることを指摘している。その大筋はこうだ。「ある王が大勢の労働者を雇った。その内の一人が非常によい働きをしたので、王は彼を連れて散歩に出かけた。夕方になって、王はこの人にも一日分の賃金を全額支払った。他の労働者が『この男は2時間しか働かず、のんびり散歩なんかしていたのに、俺たちと同じ賃金を貰うのは不公平だ』と不平を言うと、王は『彼は、お前たちが一日かかってやったよりもずっと多くの大切な仕事を2時間でしてのけたのだ』と答えた」

 この譬えは、4世紀の偉大なラビ・ブン・バル・ヒアについて、「彼は有能な学者が100年かかってもできないことをわずか28年でやってのけた」と賞賛するために語り伝えられたといわれる。この背後には「善い業に対して善い報いがある」のは当然だという「応報の教理」がある。それがファリサイ派の基本的な立場であった。

 しかし、イエスはこのファリサイ派の考え方を根底から引っくり返して、神は、「この最後の[無価値な]者にも、[価値ある]あなたと同じように報いてやりたい」と考えておられる、という。理由はない。「1時間の間に他の労働者たちより善い仕事をやったから」というような類の根拠づけは、ここでは全くなされない。それは、ただ神の憐れみによる。本田訳がこの箇所につけた、「ぶどう園に雇ってもらえない『けがれ』を引きずる貧しい人たちと神の国」という見出しは、やや強引だが正しいのである。

 最後に15節後半に目をとめたい。「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。「ねたむ」の原語は「目つきが悪い」である。それはどういう目つきか?

 イエスが、片方の手が動かなくなった人を癒やされた時のことを思い出してほしい。その日は安息日だった。安息日に癒しの業をすることは律法で禁じられていたが、イエスは敢えて「律法違反」の罪を犯してまで、その人を癒した。それを見た「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(マタイ12章14節)。その時の彼らの目つきは、殺意によって邪悪になっていたであろう。それだけではない。律法の真意を見ず、イエスの愛を正しく見ようとしない。「あなたの目つきはそれ程邪悪になったのか?」このイエスの問いは私たちの心をも抉るものだ。

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