2007・1・21

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「ただ、ひと言」

村上 伸

イザヤ書 55,8-11;マタイ福音書 8,5-13

 ガリラヤ湖北岸の町カファルナウムでの話である。イエスがそこに入られたとき、「一人の百人隊長が近づいて来て懇願した」(5節)。「百人隊長」というのは、駐留ローマ軍の士官で、日本軍のシステムでは「中隊長」といったところか。そんなに高い階級ではないが、「営外居住」、つまり兵営の外に住むことも許されていたのであろう。だから、身の回りの世話をする「僕」が必要であった。その僕が、「中風で寝込んで、ひどく苦しんで」(6節)いた。同情した、あるいは、自分の暮らしが不便になったことに音を上げた百人隊長は、イエスのもとに来て懇願したのである。

 同じ話がルカ福音書7章にもあるが、そこでは「百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた」(2節)となっている。差し迫った状況である。そこで百人隊長は、「ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来て下さるように頼んだ」(3節)。ここを読むと、彼は外国人なのにユダヤ人社会から信頼されていたことが分かる。しかも、使いに出された長老たちは、百人隊長が「わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれた」(5節)と賞賛した。善良な人物だったのだろう。

 善良な人柄は、謙虚な言葉からも察せられる。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」(8節)。こう言った後で百人隊長は、自分自身の経験から「権威」に関する考えを述べたのだが(9節)、イエスはこれを聞いて「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(10節)と感心し、そして、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」(13節)と言われた。「ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」。ここに、今日の物語の中心がある。

 似たような話はヨハネ福音書4章にもある。そこでは筋立てがかなり違っていて、「百人隊長」は「王の役人」だし、「僕」は「息子」になっている。だが、遠く隔たった所にいたイエスが「あなたの息子は生きる」 (50節) という言葉を発しただけでその息子の病気は癒された、という点は同じだ。これは一体、どういうことなのだろうか?

 以前、「癒やし」の能力を持つ人の話を聞いたことがある。その人によると、「遠隔治療」は可能なのだそうだ。イエスの話を思い出して興味を持ち、いろいろ訊いてみた。彼が言うには、もちろん相手の状態をよく知らなければならないし、すべての病気が簡単に治せるわけでもないが、大抵の心身の不調なら遠くからでも癒せると言う。「実際にどういうことをするのか。祈るのか」と聞くと、祈りとも違うという。祈りの場合は、自分の願いを神に向かって述べるわけだが、「癒やし」においては「自分が無になるのだ」と言う。自分が無になり、いわば水道管のように「中を空っぽにしてエネルギーを通すのだ」と言う。「そのエネルギーは気功の<気>のようなものか」と聞くと、「いや、それよりも高次元の霊的なもの、天使のようなものだ」という答えであった。

 イエスは、遠く離れていたのに、ただひと言で病人を癒した。これは、確かに「遠隔治療」と似ている。全く無関係ということもないかもしれない。しかし、そこから福音書を理解しようとするのは「筋違い」であろう。福音書は出来事の単なる「記録」ではない。ある明確な意図をもってこの物語を書いているからである。

 では、その意図とは何か?

 「イエスとはどのような方であるか」ということを明らかにすることである。さらに言うなら、「イエスの言葉には権威がある」ということ、従って私たちは「彼の言葉に絶対的な信頼を置くべきだ」ということを読者に示すことであった。

 マタイやルカが福音書を書いたのは、イエスが十字架上で死んでから半世紀以上も経過した頃、つまり、第1世紀の終わり頃である。「主イエスは復活して天で生きておられる」という信仰が教会を支えてはいたが、そのイエスと親しく出会ったり、直接に話を聞いたりすることは、もう出来ないのだ。そのことを「頼りない」と感じた人々も少なくなかったであろう。

 だが、天から、つまり遠く離れた所から、主イエスの権威ある言葉が、今もなお私たちに向かって語られている、と福音書は言う。

 預言者イザヤが言ったように、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ書40章8節)。これはイエスの言葉にこそ当てはまる。イザヤはさらにこう言った。「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。…そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(同55章10-11節)。主イエスの権威ある言葉とは、そのようなものだ。

 今日のテキストに即してもう少し具体的に言えば、「あなたが信じたとおりになるように」(マタイ8章13節)という「大いなる肯定の言葉」であろう。ヨハネ福音書4章を引用するなら、「あなたの息子は生きる」(50節)という「約束の言葉」だ。

 だが、私はさらに一歩を進めたい。イエスの権威ある言葉とは、「愛という新しい掟」である。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)。

 「やられたらやり返せ」という古い掟が、今、この世界を破滅に導いている。これに代えて、神はこの新しい・祝福をもたらす掟を、イエスを通じて与えられた。私たちにとっては、これこそ唯一の権威ある言葉なのだ。だから、私たちも百人隊長のように、「ただ、ひと言おっしゃってください」と祈り求めつつ生きるのである。「ただ、ひと言」。それは、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟に他ならない。

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