2007年最初の礼拝に当たり、心から新春のご挨拶を申し上げる。昨年私たちの世界で起こった様々の出来事を考えれば、年が改まったからといって単純に「おめでとう」と言うのも憚られるが、ただ神の恵みと祝福が皆さんの上にあるように祈りたい。
さて、封建時代には、世が乱れると「落首」なるものが巷に貼り出されたという。「落首」とは、為政者に対する風刺や嘲り、あるいは批判をこめた匿名の「ざれ歌」で、政道批判の一つの手段であった。多くの場合「憂さ晴らし」で終わったが、時代の問題を敏感に感じ取った名も無き民衆の知恵を示すものでもあった。
現代の日本では、憲法によって思想の自由も表現の自由も「まだ」(!)保証されているから、政治のあり方を批判するのに名を隠す必要はない。だが、仮に「共謀罪」法案が成立したりすれば、そうも言っていられなくなるだろう。再び「物言えば唇寒し」といった時代に逆戻りするかもしれない。大晦日の「毎日新聞」のコラムに発表される「世相いろはカルタ」は「落首」とは違うが、民衆の気持ちを代弁している点は同じだ。
2006年版には、ほんの僅かながら明るい話題もある。だが、それはほとんどスポーツの分野に限られていた。例えば、[い]いいなバウアー ハム勝つサンド [し]幸せの青いハンカチ王子、等である。
圧倒的に多かったのは、内外の政治に関連した厳しい批判である。[に]日本核物騒(武装)論議 [と]都庁七光り(石原都知事の四男) [ち]知事に乱れる談合列島 [わ]わが町のイメージダウンミーティング(タウンミーテイング) [な]情けが仇の復党劇 [ら]ラストサンパイ(サムライ) [や]辞めて辞めて支持率下がって [ふ]ブッシュは悔いねどタカ掃除(武士は食わねど高楊枝)、など。
政治以外にも腹立たしい事件が相次いだ一年だった。[り]リストが見たいシンドラー(シンドラーのリスト) [ぬ]抜くが世界史するが補習(高校で歴史などの教科を教えなかった問題) [つ]罪作りその一杯(飲酒運転) [ゐ]いざなぎ超えてふところ肥えず [ゆ]夕張メロンメロン(地方自治体の破綻) [み]みなさまのMHK(命令放送協会) [ひ]ひそかに進んだ人腎売買(腎臓移植手術) [も]もうかって税金払わぬ大銀行。そして最後の[京]は、今日の夢明日の正社員、というのだ。一般市民が感じている憤りや不安は、今にも溢れそうだ。私たちの国は、これからどこへ行くのだろうか?
先週のあるインタビュー番組で、昨年文化勲章を受けた瀬戸内寂聴さんが、「自分の経験した限り、こんなに悪い年はありませんでした。戦争中もこんなことはなかった」と言い、教育の荒廃など、いくつかの問題点を指摘していた。それは分からないでもない。だが、私は「戦争中もこんなことはなかった」という言い方にひっかかった。
戦争ほど悪いものはないのである。大抵の問題は、互いに英知を集めて何とか解決することも出来よう。少なくともその努力は始められる。だが、戦争はそれらすべてを拒む。特に核兵器が実用化された現代では、戦争は「絶対の悪」であって、それがもたらす苦しみや悲しみは他に例えようがない。だから、「戦争中よりも今の方が悪い」という言い方には同意できかねる。
しかし、今が悪い時代であることは確かである。一番「悪い」のは、この日本を再び「戦争を出来る国」とするために着々と手が打たれたという事実である。盛んに論じられている「北朝鮮の脅威」などよりも、こちらの方がよほど危険だ。昨年末には「教育基本法」の改定や「防衛庁の省への昇格」などが呆気なく可決された。首相は年頭の記者会見で「これで礎ができた」と成果を誇った。今年、政府はいよいよ「憲法9条」を廃棄する方向へ踏み出すだろう。「米軍再編」に伴って基地は実質的に強化されつつあるし、「非核三原則」は事実上踏みにじられている。新兵器の開発や配備に関しても、米軍との軍事協力はますます緊密になった。戦後62年。この間、表向きは一度も戦争をしなかった私たちの国は、今や、「いつか来た道」へ戻りつつある。本当の平和への道は遠のくばかりである。展望は暗いと言わざるを得ない。
この状況の中で、『日々の聖句』(ローズンゲン)は「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」というイザヤ書43章19節の聖句を今年の標語に選んだ。このことには深い意味がある。
これは、紀元前6世紀の預言者・第二イザヤが歴史の大きな転換期の中で語った言葉である。ペルシャ帝国のキュロス王がバビロニアの覇権を覆してユダヤの捕囚民を解放した時、第二イザヤは、神ご自身がキュロス王を用いて「新しいこと」(19節)を行われたと信じた。彼が心から信頼する主なる神(ヤハウエ)は、単に自然の中に現れる神ではない。歴史に介入してそれを導き、ご自身の意志を貫徹する神である。「出エジプト」の出来事が示しているように、この神は「海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方、戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方」(16-17節)である。
第二イザヤは続けて言う。それは出エジプトの「昔のこと」(18節)に留まらない。「今や、それは芽生えている」(19節)。つまり、既に今、その神の業は始まっており、それは将来も続くというのである。「あなたたちはそれを悟らないのか」。
イザヤはここで、実は遥かに主イエスを指差していると思われる。なぜなら、イエスの十字架において、神は私たちのどんな苦しみをも共に担って下さるということを明らかにし、復活において神は死に打ち克ついのち・絶望に打ち克つ希望を示された。つまり、真に「新しいこと」がそこでこそ始まったからである。