言うまでもないことだが、イエス自身はユダヤ人であり、宣教開始以来イエスに従った弟子たちも皆ユダヤ人である。イエスがモーセ律法を否定したことは一度もない。律法学者たちの杓子定規な律法解釈を大胆に批判はしたが、それは律法の真の意味を生かすためであった。ユダヤ教の会堂に入って教えたことも少なくない。彼には、ユダヤ教に敵対する「分派」を作ろうなどという意図は全くなかった。
だが、そのイエスをユダヤ教指導部は敵視し、遂には十字架にかけて殺してしまった。理由は、「律法に背き、神を冒涜した」ということである。その敵対的な態度は、ヨハネがこの福音書を書いた紀元2世紀の初め頃になっても変らなかった。にもかかわらず、例えばニコデモのように(ヨハネ福音書3章)イエスの教えに関心を抱いたユダヤ人は少なくなかったし、中には洗礼を受けた人もいたのである。今日の箇所に「御自分を信じたユダヤ人たち」(31節前半)とあるのは、その人たちのことだ。
しかし、この人たちはイエスの言葉を信じて受け入れはしたが、その信仰は表面的に留まり、心の中は揺れていたらしい。そのことを暗示するのが「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(31節後半)という言葉である。そんなに動揺しないで私の言葉に留まりなさい、とイエスは勧めたのである。そうすれば、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(32節)。
真理はあなたたちを自由にする!
聞くところによると、国会図書館の壁には、この言葉がギリシャ語で書かれているという。恐らく、それを考えついた人は、訪問者にこう訴えたかったのではないだろうか ―― 沢山の本を読んで知識を広げれば、「真理」、つまり「本当のこと、まことの道理」(広辞苑)を知ることができる。そうすれば、根拠のない偏見や先入観、間違った判断から自由になれる。つまり、真理はあなたたちを自由にする、と。
だが、むろん、本を読んで頭の中の知識の量を増やすだけでは十分ではない。安曇野の「碌山美術館」には、「万巻の書を読み、千里の道を行く」という萩原守衛(碌山)の言葉が掲げてある。「万巻の書を読む」ことで得た知識を、「千里の道を行く」ことで身をもって確認する、という意味であろう。そこには、実際に「旅行をして見聞を広げる」という意味もあるだろうが、もう少し深い意味もこめられているように思われる。人生そのものが「千里の道」なのだ。その遥かな道をたゆまずに歩み、知識を実生活に生かして行くことによって初めて、人は真理を本当に「知る」ことができる。この彫刻家は、そう考えたのであろう。
これはその通りだが、イエスが言われた「真理」は、そのような一般的な「真理」を超えるものであった。
ヨハネ福音書の冒頭には、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)という印象的な言葉がある。これは、イエスがこの地上世界の歴史の中で神の愛を実証したということ、つまり、受肉の事実を意味するものだ。そして、そこには「恵みと真理」が満ち溢れていると言う。ヨハネにとって「真理」とは、「本当のこと、まことの道理」というような一般的なものではない。むしろ、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)という「神の愛」の事実である。これこそが「真理」なのである。
ヨハネの手紙一も、同じような趣旨のことを強く訴えている。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(4章8節)。「神の愛」が真理なのだ。そして、それは必然的に、私たちが互いに愛し合うことを求める。「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(同11節)。この考え方は、新約聖書を一貫している。
再びヨハネ福音書に戻ろう。イエスが「真理はあなたたちを自由にする」と言ったとき、ユダヤ人は、自分たちが奴隷のように囚われた存在だと言われたことに反発して、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」(33節)と言った。自分たちはもともと自由な人間だ、というわけである。
このことは、現代史におけるある出来事を思い起こさせる。ブッシュ大統領が「自由」と「民主主義」を旗印にしてイラク戦争を始めたことは周知の通りである。自分たちが享受している「自由」と「民主主義」という普遍的価値を、イラクにも打ち立てねばならない。そして、これまでフセイン大統領の暴虐な支配の下で自由を奪われていた人々を解放しなければならない。これが、あの戦争の大義であった。
だが、このような大義名分を振りかざす人々が本当に「自由」とは限らない。確かに、彼らは「自由主義」の国の国民かもしれない。しかし、本当に自由だろうか? 際限のない憎み合いや殺し合いから自由だろうか? 自己中心的な生き方(罪)から自由だろうか? 神の愛に真に打たれて、互いに愛し合うことができるほど自由だろうか?
イエスはこれらのユダヤ人に向かって、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(34節)と言われたが、これは現代世界に生きるすべての人に厳しい反省を迫る言葉ではないだろうか。