2006・12・24

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「飼い葉桶の中のイエス」

村上 伸

ルカ福音書2,1-20

本田哲郎というカトリック神父がいる。長年、大阪・釜が崎で日雇い労働者と共に暮らして、彼らから学びながら、主イエスに従う道を求め続けて来た人物だ。その彼が5年ほど前に、四福音書と使徒言行録を翻訳して出版した。『小さくされた人々のための福音』(新生社)という。これは、彼の言葉によれば、「抑圧され小さくされた人々」、つまり、「社会の底辺に立つ人々」の視点から、いわば「低みに立って」すべてを見直すことを試みた独自な訳業である。

 普通、クリスマス物語は「美しい昔話」として、最近の変な用語を使えば「メルヘンチック」(!)に理解されることが多い。日本では特にそうで、巷にはさまざまな技巧を凝らしたイルミネーションや甘ったるいクリスマスソングなど、その種のものが溢れる。それをチャンスと捉えて「クリスマス商戦」も盛んだ。先ほど、クリスマスに関する西洋の名画を何枚かスライドで皆さんに紹介したが、それらにも似たような傾向がある。

ところが本田神父は、新約聖書のクリスマス物語を一貫しているのはそういうものではないと考える。むしろ「低みに立って見直す」視点だ。そのことを、彼はこの翻訳によって明確に表現した。

たとえば、マタイ福音書1章1-17節に「イエスの系図」があるが、彼はそこに「貧しさと『けがれ』を担うイエスの生い立ち」という見出しをつけた。イエスの先祖には、当時のユダヤ人の常識から見て決して立派とはいえない、「けがれた」人々が何人もおり、イエスはそういう人々の血を受けて、彼らの仲間として生まれてきたというのである。

続いて1章18-25節には、ヨセフと婚約していたマリアがまだ一緒にならないうちに身ごもったということが書いてある。これは当時のユダヤ社会では一つの「スキャンダル」であった。そこで、本田神父はこの段落に、イエスが「けがれた罪の子」として生まれて来たという見出しをつけた。

続く2章1-12節は、東の方の博士たちが拝みに来たというメルヘンのような物語だが、この箇所の見出しは、「最初の訪問者は、貧しい不毛の『東の地』からの占い師」という、「身も蓋もない」ものだ。

13-15節は、ヘロデ大王による幼児虐殺の噂を聞いて一家がエジプトへ逃げたという話だが、本田神父がここにつけた見出しは、「幼子イエス、マリア、ヨセフ、『難民』としてエジプトに避難」である。すべてこの調子だ。

今夜のテキストであるルカ福音書2章1-7節も同じで、この段落の見出しは、「村中からうとまれたイエスの誕生――『けがれ』にみちた罪の子」である。イエスは社会から疎まれている人々の一人のようにして生まれて来た、というわけである。そして、最後の第7節を彼は「宿屋には、かれらのためには、場所がなかった」と訳した。これはその間の消息を見事に表現している。この社会に居場所がないと感じている人は多いが、イエスは正にそういう人々の仲間となられた、ということだ。

これを、「一寸極端な見方ではないか」と感じる人もいるであろう。しかし、私は、ここには真実があると言わずにはおれないのである。

イエスが生まれたとき、彼は馬小屋の中の飼い葉桶の中にボロ切れに包まれて寝かされた。この社会には「場所がなかった」からである。このことは、彼がこの世に生まれて来たのは、「小さくされた人々」の傍に行き、彼らの辛さや悲しみを共に担い、彼らに代わって苦しむためであったことを象徴的に表現している。

福音書に描かれているイエスの一生、つまり、最後は十字架上で見捨てられて死んだ彼の生涯は、正にそういうものであった。だが、神はこの見捨てられたイエスを見捨てたままにしてはおられなかった。イエスが三日目に墓の中から甦らせられたことは、いのちの喜びを私たちに約束している。

私たちがクリスマスを祝うのは、このために他ならない。

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