イザヤ書40章は、第2イザヤと呼ばれるユダヤの預言者が語った言葉である。その歴史的背景について、簡単に述べておこう。紀元前586年に南王国ユダがバビロニアのネブカドネザル王によって滅ぼされ、民の多くがバビロンに強制連行されて、ほぼ半世紀にわたって異郷で苦難を味わった。名高い「バビロン捕囚」である。
だが、紀元前539年に新興ペルシャ帝国のキュロス王がバビロニアを倒して覇権を握り、捕囚民を解放した。第2イザヤは、この解放は神の憐れみによって起こった歴史的出来事であると受け止め、喜びに満たされてこの言葉を語ったのである。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる…苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」(1-2節)。
だが、解放された民はバビロンから長い道のりを歩いて故国に帰って来なければならない。第2イザヤが、「主のために、荒れ野に道を備え」(3節)と言ったのは、途中の困難な道のりを思ったからだ。
一体、彼は誰に向かってそう言ったのか? ある注解者は、天使に向かって語りかけたのではないか、と言う。故郷への帰還の道は、なるべくデコボコの少ない、平坦で広い道であってほしい。険しい、起伏の多い悪路では困る。預言者はそのような願いを込めて、「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」(4-5節)と言った、というのだ。険しい道が平らになって初めて、「主の栄光が現れるのを…肉なる者は共に見る」(5節)ことが出来るからである。
歴史的背景は確かにそういうことであろう。だが、「道を備える」というこの言葉には、実はもっと深い意味と普遍的な広がりが含まれている。単に道路を歩き易いように補修する、というような話ではない。
例えば、今日朗読したルカ福音書3章は、イザヤ書のこの箇所をそのまま引用しているが、その際、洗礼者ヨハネがイエスの「道を備えた」と言っているのである。そして、その「道備え」の意味を、ルカはヨハネの言動から明らかにした。
ヨハネは群衆に向かって、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(3章11節)と教えた。また、懲税人に対しては、「規定以上のものは取り立てるな」(13節)と言い、兵士に対しては「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」(14節)と戒めた。このように、社会的正義と公平を身の回りの小さなことから実践する努力を始めよ、とヨハネは教えたのである。
イエスは、どんな人も等しく神の子であると教えた。そして、社会の底辺で差別に苦しみながら生きている「いと小さき者たち」に注意深く・やさしい眼差しを注ぎ、富と権力を独占して高ぶる者たちには歯に衣着せぬ批判を浴びせた。彼が生涯をかけて実証した「愛」は、預言者たちが目指していた「正義と公平」を受け継いで、それを完成させるものであった。イエスの誕生に先駆けてマリアが歌った「マリアの賛歌」に、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1章51節以下)とある通りである。
この意味において、洗礼者ヨハネはイエスの「道備え」をしたのであった。これは昔の話ではない。いつの時代にも、主イエスの再臨と共に訪れる終末の完成、つまり正義と公平の実現のために「道備え」をする人々が必ず現れる。
2006年のノーベル平和賞は、バングラデッシュのムハマド・ユヌスさんに与えられた。この人は「グラミン銀行」の総裁である。元経済学の教授であったらしい。
受賞の理由は、「マイクロ・クレジット」である。彼は無担保の融資を行って、土地も資産も持たない貧困層、殊に女性たちに、小さな事業を起こすための資金を貸し付け、自立を支援したのだ。この「グラミン銀行」は、今やバングラデッシュ全土に支店網を持つまでになった。それだけ民衆に支持され、従ってまた事業としても成り立っている、ということであろう。
営業方針も独特だ。貧しい人たちの多くは字が書けないし、銀行に恐怖感を持っているから、銀行に来て面倒な手続きをすることを嫌がる。そこで、従業員がその人たちの所へ出かけて行って相談に乗り、数ドルから精々数十ドルの小額資金を貸すのである。自立の志があり、しっかりした計画があれ、5人1組になって連帯責任を約束すればそれでよく、担保はいらない。そのために融資を受ける人は年々増え、しかも、その95%は女性だという。ユヌスさんは「そこに意味がある」と言う。この融資が、事実上男性に隷属させられている女性の自立を助けているからだ。そのことを通して子供たちの栄養状態も著しく向上し、就学率も高まっているという。
もちろん、悪口や中傷も多い。しかし、ユヌスさんは、「この銀行は万能ではない。だが、手をつけられるところから始めなければならない」と言って動じない。この「小さい事から始める」という点が重要だ。ヨハネが教えた事もそれだった。
キング牧師がガンジーの「非暴力主義」について聞いた時、「クリスチャンでしかも牧師でもある自分が、今までイエスの教えを本気で信じていなかった」ことを恥じたという。今、世界のキリスト教徒は恥じなければならない。小さな者たちを愛されたイエスの心が、このイスラム教徒によって実践されている!本来キリスト者には、正義と公平を実現する大切な使命を「小さなこと」から始める大きな自由が与えられている筈ではなかったか。