2006・11・26

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「万物を新しくする」

廣石 望

詩編90編; ヨハネ黙示録21,1-7

去る11月16日から21日まで、スイスのバーゼルで「スイス・日本・韓国三国間教会協議会」が開かれました。私はこの会議に、日本基督教団のスイス協約委員会のメンバーとして参加しました。共通主題は「移住する神の民God's Migrating People」、つまり広い意味での人の移動です。現代社会ではグローバリゼーションの進展に伴い、生まれ育った土地を離れて、文化や宗教そして国の境を越えて暮らす人々が増えています。移住ないし移動のかたちはじつに多様です。おそらく最も短期的なものが海外旅行でしょう。滞在がより長期にわたるものとして留学や企業の海外駐在、さらに出かせぎその他の移住労働があります。もっと長くなりそうなものに国際結婚や移民があります。本来望まずして移住するパターンの典型が難民・亡命です。そしておそらく最も悲惨なかたちの移住に人身売買があります。私たちの教会でも、先週の礼拝後に、宣教師デビー・ジュリアンさんを囲んで、日本における移住労働者の人権状況と支援活動についてお話を伺う機会があったと聞いています。

いろいろと学ぶところの多い会議でした。忘れられないのは、バーゼル市の郊外にある難民資格申請者のための受け入れセンターを見学したことです。スイスでは先ごろ、難民申請をより厳格に取り扱うための法律が、国民投票で採用されたばかりです。受け入れセンターは線路沿いの畑の中に、ぽつんと立っていました。コンクリート製の味気ない建物です。難民資格を申請したい人々は、まず自力でここまでたどり着かなければなりません。多くの人はパスポートその他の身分証明を持ち合わせていないそうです。彼らは最初の書類に記入した後で、写真をとって仮身分証を発行してもらい、同時にコンピューターで指紋を採取されます。指紋はデジタル化されて一括管理され、その検索システムは、他のヨーロッパ諸国の入国管理局や警察ともリンクする予定だと聞きました。受け入れセンターに入った人々は、自分の国に帰るための手続きについて説明を聞いた上で、いろいろな質問を受けます。狭い建物の中にひしめき合って暮らす人々の多くはアフリカ系の男女の若者たちと大人たちであり、学齢期と思われる子どもたち、さらには赤ん坊や幼児もいます。他方で、高齢者はほとんど見かけませんでした。彼らは最長2ヶ月ここに滞在し、その間に難民申請に関する決定が下されるそうです。そして実際に難民と認定される人の数は決して多くありません。

こうした人々の中には、家族や親戚から借金をして、運び屋にお金を払ってやってきた人もいて、そう簡単に祖国に帰るわけにはいかないのだそうです。しかし許可を持たないまま滞在していることがばれて検挙された人は、センターのすぐ隣の建物に収容されます。この建物は有刺鉄線に取り囲まれ、窓には鉄格子がはめ込まれ、出入り口も厳重に警備された監獄です。彼らを待っているのは国外退去ないし強制送還です。

II

私自身も留学生として9年間スイスで暮らしたので、移住生活者の苦労は少しだけ分かります。とにかく「ここにいてよい」という許可を他人から出してもらわなければ法律を犯したことになる、という心理的なプレッシャーは、生まれた国にそのまま安心して住み続ける人にはちょっと想像しにくいものです。難民申請を行う人々の心理的・身体的なプレッシャーはたいへん大きく、病気になる人も出ます。バーゼルの受け入れセンターでは、教会が支援活動を行っています。センターの隣の小さな敷地に、トラックのコンテナを三つ並べた簡素な施設をつくり、コーヒーを出したり本を貸し出したり、役所の書類を一緒に読んで説明したり、あるいは今後について身の上相談に乗ったりします。

そこで活動している、60歳代半ばと思われる女性と話しました。彼女は、もうかれこれ15年以上も、この支援活動をまったくのボランティアで続けているそうです。長く続けることができた動機について尋ねると、彼女は次のように答えました。「もう若くないというのは、この仕事をする上でかえって有利なのよ。私はアフリカの人たちには母親のような存在になれる。センターにやってくる人たちは、出身地域や文化も本当にいろいろ。学校に一度も行ったことのない人もいれば、大学教授や医者だった人もいる。この人たちが持っているすばらしい夢や希望について、また私が見たことも行ったこともない世界の話を聞いていると、ぜんぜん飽きないのよ。ただ悲しいことに、新しい世界にたどり着きたいという夢は、なかなか叶わないのだけど」。

III

新しい世界への希望は、先ほど朗読したヨハネの黙示録でも述べられています。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(21章1節)。黙示録は、ローマ帝国による広い意味でのキリスト教迫害という状況のもとで著されました。大方の学者が、皇帝ドミティアヌスの時代を想定しています。ドミティアヌスは皇帝の家系が神的なものであるとし、彼の時代に小アジアでは皇帝礼拝の祭儀がおよそ確立していました。著者ヨハネは、キリスト教信仰のゆえに、おそらく本来の居住地を離れて、エーゲ海に浮かぶ小島に住んでいました。事実上の幽閉です。「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」(1章9節)。

「最初の天と最初の地は去って行き」とあるように、ヨハネと彼の同志たちは、現在の世界に対して深く絶望しています。この世界が「去って行く」以外に、彼らの希望は叶えられそうにありません。そのとき「海もなくなった」というのは、一緒にいたいと願う仲間たちの間を引き裂く障壁がなくなる、という意味かも知れません。そのとき「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(3-4節)。神がともにいて、人々の涙を拭い去って下さる、そんな世界が必ず来るという希望は、この世界で虐げられている人々の希望です。それは彼らの生きるためのよりどころであり、誇りと尊厳の源であるように思われます。そしてこうした人々に向かって、神は「見よ、わたしは万物を新しくする」と言うのです(5節)。ここでいう新しさは、今は流行ってやがて廃れて古臭くなるような新しさとは違う、何か根源的な新しさです。いったい新しさとは、どういうことなのでしょうか。

IV

ここで少し視野を広げて、神が作り出す「新しさ」について、「移住する神の民」という教会協議会の主題とも関連して「新しい創造」という視点から幾つかのことを指摘します。

まずイエスの師であった洗礼者ヨハネは、イスラエル民族の選民思想を批判しつつ、こう言っています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。・・・『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタイ3,8-9)。これは、ある特定の民族ないし国家に属することそれ自体に救済の根拠はなく、なおかつ神は約束の民を、最も無価値なものから新しく創造することもできる、という宣言です。つまり洗礼者ヨハネは、暗示的な仕方で「新しい創造」について語ったのです。

次に洗礼者ヨハネの弟子であったイエスは、生涯で二度、自分の居場所を変えています。一度は「父の家」を捨てて洗礼者ヨハネのもとに赴いたとき、そして二度目は荒野の洗礼者ヨハネのもとを去り、無一文の乞食坊主となってガリラヤの村々をめぐり歩いて「神の国」の宣教を開始したときです。いずれの場合も、世界観の変化を伴っていたと思われます。一度目の転機は、洗礼者ヨハネのいう民族主義的な救済思想の否定と、神の裁きの普遍的な性格を、イエスが受け入れたことを意味するでしょう。そして二度目の転機は、「神の国」の出現がその動機でした。イエスは放浪しましたが、その目標は「神の国」という新しい世界に入ることでした。その際にイエスにとって新しい世界とは、原初的な神の創造の回復を意味しました。それは天の父なる神が「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」ような世界(マタイ5,45)、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われるような世界(マルコ2,27)、そして「野原の花が・・・働きもせず紡ぎもしない。しかし・・・栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(ルカ12,27)ような世界です。だからこそイエスは言います、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11,20)。

同様にイエスを神の啓示と信じるに至ったパウロは、この信仰をユダヤ民族主義の枠を超えて異邦人にまで伝えることに生涯を賭けました。そして彼は、この民族間の境界線を越える信仰を、「新しい創造」と特徴づけます。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリ5,17)。これは洗礼者ヨハネが「こんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と信じた神の力の実現そのものではないでしょうか。

こうして見ると、ヨハネの黙示録の著者が夢見た「新しい世界」とは、洗礼者ヨハネやイエス、そしてパウロによっても共有された希望であったことが分かります。

V

イエスの悪霊祓い、パウロの異邦人伝道のように、今のこの世界に「新しい世界」の始まりは現に存在するのか。それともヨハネの黙示録の著者のように、「最初の天と最初の地」が去り行かなければ、新しい世界は来ないのか。これらは、「新しい創造」に関する二つの考え方のタイプです。

私自身は、この世界においても「新しい創造」はあるのだと信じたいと思います。バーゼルの会議で、一人の韓国人の女性牧師が、彼女が属する「多文化教会multicultural church」の実践について報告されました。その中で、忘れられない一枚の写真があります。韓国農村部に花嫁として連れてこられ、家庭における家事と介護および農業労働力として酷使され、しまいには夫の暴力に耐えかねて、ゼロ歳児の赤ちゃんとともにシェルターに逃げ込んできたベトナム人女性の写真です。彼女は支援者たちのもとで次第に落ち着きを取り戻し、赤ちゃんの1歳のお誕生日には、教会の信徒さんから借りたチマチョゴリを着て、きれいにお化粧をし、子どもをひざに抱いて写真の中で微笑んでいます。異国の民族衣装を着て微笑むベトナム人の母親と、その膝に抱かれたあどけない乳幼児。この女性は「私は韓国人として生きてゆきたい」と明言しておられるそうです。――こうした人たちの存在は国家の境を越え、文化や宗教の境を越えて、さらには女性に対する暴力の壁をも超えて、この世界に見えるかたちで現れた「新しい創造」です。彼女の姿は、まるで「夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて・・・天から下って来る」(2節)新しいエルサレムのようではありませんか!

「見よ、・・・神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(3-4節)。

私たちも、この世界で小さくされた人々の夢と希望を感じとる想像力を与えられて、万物を新しくする神の大能の力を信じたいと思います。

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