2006・11・19

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「苦難を恐れず」

村上 伸

ヨブ記 13,20-28; ヨハネ黙示録 2,8-11

 親しい人が何かで苦しんでいるのに、私たちがうっかりしてそれに気づかないでいることがある。もちろん、私たちは全知全能ではないから、すべてを知ることは不可能だが、後から気がついて「知らなかった」と自責の念を覚える。これは、私たちの日常の経験である。

 昨日、私は三鷹のルーテル学院大学で講演をした。事務室の女性が準備に当たってくれたのだが、その人は連絡メールの中で自分は東京女子大学の卒業生だと名乗り、「ドイツ研修旅行にも先生と一緒に行きました」と懐かしそうに書いて来た。そして、その旅行中ずっと同室だった友達の名をあげたのである。私は実に久しぶりに、その学生のことを思い出した。その人は、旅行から帰って直ぐに丁寧なお礼の手紙をくれたりしたのだが、間もなく、父親が妻子を道連れにして自殺するという全く思いもかけない事件に巻き込まれて、この世を去った。このことを知らされたときに私たちが受けたショックは並大抵のものではなかった。悲しんだ仲間たちは追悼礼拝を計画し、皆でチャペルに集って讃美歌を歌い、祈りを捧げたが、参加者の一人は、「私や私の友人たちは、彼女の死に気づいてあげられませんでした・・・死後5日たって発見されるまで何にも気づかなかったのです」と辛そうに感想を洩らした。

 むろん、それは仕方のないことだった。そんなに自分を責めなくてもいい。それでも「気づいてあげられなかった」という自責の思いを禁じ得ないのは、友情も役に立たなかったという口惜しさや無力感の故でもあろう。自分たちはその時、何も知らずに楽しい学生生活を送っていたのに、彼女は誰にも知られずに死んだのだ。

 だが、聖書は私たちに、すべてを知り給う方が存在するということを告げる。「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」(9節)。この慰めに満ちた、力強い言葉を語ったのは、「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」(8節)、つまり、「天上のキリスト」である。この方は復活して天に昇り、そこで永遠に生きておられる。そして、この方が苦難の中にいる人々に、「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」と語りかけるというのである。これが私たちの信仰である。

 ここで言われている「苦難」・「貧しさ」とは、具体的にはキリスト教徒に対していわれなく浴びせられた「非難」のことであり、彼らに襲いかかる「迫害」「投獄」の苦しみのことであり、その結果として生ずる経済的「貧しさ」のことであろう。それだけではない。彼らの上に重苦しく垂れ込めていた時代の暗さのことでもある。ローマ帝国は「皇帝礼拝」を強要するなど、さまざまな悪しき支配を行った。その下で世界はこれからどうなるのか? この、先が見えない不安。それも含めて「あなたの苦難や貧しさ」と言うのだ。これは、現代の私たちが感じている不安でもある。

 だが、天で生きておられるキリストは、これらの苦難や貧しさをすべて知り給う。

 では、「知る」とはどういうことか? 単に知識として、そのような問題が存在することを「認識している」というだけではない。それを「自分のこととして受け止め、その苦しみに共感し、その重荷を共に担う」ということである。

 新垣勉さんというテノール歌手がいる。沖縄・読谷村の生まれで、父はメキシコ系の米軍兵士、母は沖縄の女性だという。生まれて直ぐ、助産師が間違って劇薬を点眼したために失明した。その上、1歳の時に両親は離婚、父は帰国し、母は彼を祖母に預けて再婚した。14歳の時にその祖母も死に、彼は天涯孤独になる。こうして彼はすべての希望を失い、父も母も助産師さんも、周りのすべての人を憎むようになり、遂には死のうと思った。だが、偶々ラジオで聞いた讃美歌に何となく惹かれて訪ねて行った教会で、一人の牧師と出会う。彼が絶望や怒りをぶちまけて「父を殺してやる」と言ったとき、その牧師は何も言わず、ただ一緒に泣いてくれた。新垣さんは言う。「ああ、自分のことを分かろうとしてくれる人がいる。身内でもないのに、自分のために泣いてくれる人がいる。そのためだけにも自分は生きて行かなくてはいけない。そう思った」。これは、数日前の『毎日新聞』夕刊に紹介された彼の言葉である。

 「知る」ということは、このように、相手の苦しみや悲しみに共感することである。そして、生前のイエスは、出会うすべての人々の苦しみや悲しみを「知って」いた。

 重い皮膚病を患っている人と出会ったことがある。そのとき彼は「深く憐れんで、手を差し伸べた」(マルコ1章41節)。「深く憐れむ」と訳されたギリシャ語は、もともとは、「腸をかきむしられるほどに心を動かされる」という意味である。彼は重い皮膚病を患っている人に共感したのだ。しかも、当時、そのような病人は「汚れた者」というレッテルを貼り付けられて、「独りで宿営の外に」住まねばならなかった(レビ記13章46節)。近寄ったり接触したりすることは固く禁じられた。だが、イエスは、敢えてその人の傍に行き、手を差し伸べたのである! このような仕方で、彼は本当の意味でこの人のことを「知った」のである。

 そのような方が、今、天で生きておられ、私たちの苦難や貧しさに共感し、私たちのために涙を流しておられる。

 だから、「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない」(10節)。どんなに苦しくても、それは永遠に続くわけではない。「十日の間」、つまり限られた時間、続くだけだ。だから、苦難を恐れずに、「死に至るまで忠実であれ」。これが今日のメッセージである。

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