2006・11・5

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「平和の計画」

村上 伸

エレミヤ書 29,4-14;ヘブライ 11,13-16

 初めに、エレミヤ書29章時代背景について簡単に述べておこう。

 紀元前597年に新バビロニア帝国の王ネブカドネツァルは、ユダ王国の都エルサレムを攻めて占領した。列王記下24章10-17節によれば、バビロン軍は神殿や王宮の宝物を根こそぎ略奪し、ヨヤキン王を捕らえて、その母親や王妃たち、家臣・高官・有力者たちと共にバビロンに連行した。軍人7000人、職人と鍛冶1000人、勇敢な戦士の全員も捕囚となった。これが1回目の「バビロン捕囚」である。

 預言者エレミヤは、この時エルサレムに残った。同じく残留した人々の中には、ハナンヤという預言者の煽動に乗ってゼデキヤ王を担ぎ、反バビロン運動を起こしたグループがあった。彼らは捕囚となったある人々と連繋してバビロンへの反逆を計画した。エレミヤは、その無謀を諌めて制止したが、彼らは聞かない。この計画を知って怒ったネブカドネツァルは、再び全軍を率いてユダに出撃し、1年半の長きにわたってエルサレムを包囲した。そのため、この都には食料が尽き、紀元前586年に遂に陥落する。神殿も王宮も街も、すべてバビロン軍によって焼き払われ、徹底的に破壊された。ゼデキヤ王とその家族は捕らえられ、王子たちは王の目の前で殺され、王自身は両目をくりぬかれ、青銅の足かせをはめられてバビロンに連行されたと列王記下25章は伝えている。ユダ王国はこうして滅亡する。エレミヤが預言者として活動したのは、このような激動の時代であった。

 さて、預言者エレミヤがこの手紙を書いたのは1回目の捕囚の後で、紀元前593年頃と言われている。これを彼は、捕囚となった「長老、祭司、預言者たち、および民のすべて」(1節)のために書き、使者に託して送ったのである。

 彼は、先ずこう書いた。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない」(4-6節)。

 これはどういう意味だろうか? エレミヤは、預言者ハナンヤほど楽観的ではなく、捕囚は直ぐには終わらない、恐らく70年もの長期にわたるであろう(10節)と見ていた。当時は、「人生の年月は70年程のものです」(詩90編10節)とあるように、70年といえば人の一生の長さと考えられていた。つまり、生涯そこにいなければならないかもしれない。これは生半可なことではない。この厳しい現実を受け入れて腰を据えなさい、とエレミヤは勧めたのである。慌てず、騒がず、甘い希望的観測にも踊らされず、むしろ地道に家を建て、労働に励み、次の世代を増やすがいい。

 それだけではない。エレミヤは、神の命令としてこうも書いた。「わたし(神)が、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」(7節)。捕囚は冷たい運命のようなものではない。この民族をバビロンに送ったのは神である。そうである以上、たとえ捕囚地での暮らしがどんなに辛くても、神の守りがあり、神から与えられた使命もある。

 ボンヘッファーは1943年の春にヒトラーの「国家秘密警察」(ゲシュタポ)によって逮捕され、処刑される前の約2年間を獄中で生きた。そこで彼はあらゆる苦しみを嘗めるが、その中でいくつかの祈りを書き残している。自分のためだけではない。獄の外にいる家族や友人のため、同囚の人々のため、看守たちのために祈っている。

 「私に信仰を与えて下さい。絶望と病的欲望と悪徳から私を救う信仰を。神と人々に対する愛を与えて下さい。あらゆる憎しみと悪意を根絶する愛を。希望を与えて下さい。私を恐れと無気力から解放する希望を。・・・あなたの御前で、私は家族の皆と、同囚の人々と、所内で重い役目に従事するすべての人々のことを思います。主よ、憐れんで下さい」(『獄中書簡集』162頁)。看守の中から、彼に心酔して手紙を秘かに外に持ち出す危険な仕事を引き受ける人が何人か現れたのも理解できる。彼はあのゲシュタポの監視下にあっても、その中で平和な関係(シャローム)を作り上げたのだ。

 エレミヤが「町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい」と勧めたのも同じ精神であったろう。地元のバビロン人との間に平和な関係(シャローム)を作り出す。人はどこにいても、この使命から逃れることは出来ない。

 捕囚地には、ハナンヤの影響を受けて「速やかな解放と祖国への帰還」を約束する預言者や占い師もいた。彼らの言うことを信じた人々は、ここは自分たちが本来いるべき場所ではないと考えて腰が落ち着かず、現地の人々との間に平和な関係を築く努力もしなかった。だからエレミヤは、「あなたたちのところにいる預言者や占い師にだまされてはならない」(8節)と言ったのである。むしろ、「町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい」

 そのように生きるとき、真の約束も私たちのものとなるだろう。エレミヤが、「主はこう言われる。バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地(ユダ)に連れ戻す」(10節)と言ったように。これは神の計画なのだ。しかも、「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(11節)。

このことを信じて生きることは、現代の日本でも求められていると信じる。

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