「カインとアベル」の物語は文学者の創作欲を刺激するとみえて、いくつかの作品がこれに基づいて書かれた。有島武郎の『カインの末裔』もその一つである。
この小説は、1918年(大正7年)に発表された。北海道の貧しい小作農の苦しみを描いたものだ。有島はキリスト教徒で、自分は父から相続した広大な土地を所有しているから働かなくても安楽に暮らせる。だが、額に汗して働く農民は一生貧乏から抜け出せない。この現実に、「罪」を感じていた。だから、創世記のこの物語を読んで、「カインは土を耕す者となった」(2節)という所に心を惹かれたのかもしれない。また、神は「カインとその献げ物には目を留められなかった」(同)とある。農民の報われない辛さを、有島はここに見出したのであろう。さらに、「土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない」(12節)という言葉がある。これも、痩せた土地を耕す小作農の厳しい生活と重なる。そういう意味で、彼はこれらの農民たちを「カインの末裔」と呼んだのであろう。そこには深い同情がこめられている。
実際、彼はこの作品を発表してから4年後に小作人を集めて、すべての農地を無償で彼らに譲り渡すことを告げた。土地を共有し、共に生産に従事するという理想を目指して、新しい生活形態を模索したのだ。ニセコ町には、このことを顕彰する「有島記念館」が建てられて、現在も活動中ということである。
さて、創世記4章に基づいて書かれたもう一つの有名な作品がある。ジョン・スタインベックの『エデンの東』である。創世記によると、弟を殺して追放されたカインは、「主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」(16節)とある。『エデンの東』というタイトルはここから来た。
この小説は、ある家族の「愛と憎しみの葛藤」を描いた物語である。父アダムは農園を経営しているが新事業に手を出して失敗し、全財産を失う。母ケイトは何年か前に家庭を棄てて出奔し、今は娼館の女主人になっている。兄息子アロンは真面目な男で、エイブラという恋人もおり、父の覚えも悪くない。だが、弟息子キャルは難しい性格で、家族の中で孤立している。彼は戦争景気に乗じて相場で大儲けし、稼いだ大金を破産した父に差し出すが、父はそれを受け取ることを拒む。キャルは愛を求めているのに、拒否されたと感じる。エリア・カザン監督が作った映画では、ジェームズ・デイーンがこの孤独な若者を演じて大評判になった。
スタインベックは、創世記4章を「愛憎の葛藤」の物語として読んだ。先に述べた有島武郎は、それとは違った視点から、「農民の苦しみ」に焦点を合わせてそれを解釈した。いろんな人が、それぞれの立場から聖書を読み、独自の解釈をする。それはそれでいい。一つの解釈だけが絶対ということはないのである。
では、私はこの物語をどう読むか?
この直前の創世記3章は、アダムとエバが「善悪を知る」木の実を食べたために楽園から追放されるという話であった。4章はそれと密接に関連している。
「善悪を知る」の「知る」は、「支配する」という意味である。ヒトラーは心を病む人や障碍者、不治の病人などを「生きるに値しない命」と勝手に断定して大量に殺し、それを不遜にも「安楽死」と名付けた。善悪を勝手に「支配する」ということは、こういうことだ。許されることではない。何が「善」であり、何が「悪」であるかを決めることが出来るのは、本来、神だけである。
善悪を勝手に「支配する」ほど高ぶる時、人間は堕落する。祝福に満ちた楽園から追放され、人間らしい生き方を失う。そして、共に生きるべき人を殺し始めるのである。それが創世記4章の意味である。それから後の旧約の記述が、憎しみと争いと殺し合いで満ちているのは、人類が「カインの末裔」であるということの証しだ。
カインは、自分の献げ物が無視されたために、「激しく怒って」(5節)、弟アベルを殺したという。怒りが理性を曇らせたのである。このカインの怒り。これこそ、それ以後の人類の歴史を特徴づけるものに他ならない。
明日は「同時多発テロ」(9・11)の5年目の記念日だが、あの時のアメリカ国民の怒り、大統領の怒りは、アフガニスタン戦争・イラク戦争を惹き起こした。これはアメリカに限らない。歴史上、同じことは至る所で繰り返されてきた。その意味で、私たち人類はまさしく「カインの末裔」なのだ。
ベルリンのテーゲル空港の近くに、「キリストの償い」という名の教会がある。戦後建てられた教会で玄関前に真っ白な壁があり、その上にいくつかの地名が書かれてある。ゴルゴタ、プレッツエンゼー、アウシュヴィッツ、ヒロシマ、マウアー。いずれも、人類が犯した暴虐の地名だ。「プレッツエンゼー」はご存じないかもしれないが、この教会の近くの地名である。そこには拘置所があり、ナチはそこで無数の人々を処刑したのである。「マウアー」とは、「ベルリンの壁」のことだ。東西の交流を非人間的な仕方で遮断しただけでなく、自由を求めて逃げようとした多くの市民が、この壁の前で無残にも射殺された。
それらの地名の上に、創世記4章10節の言葉が書かれている。「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」。これは、世界のあちこちで、今に至るまで繰り返されているではないか。人類は、やはり「カインの末裔」なのだ。
しかし、だからと言って、「私の罪は重すぎて負いきれません」(13節)と絶望してはならない。「主は、カインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」(15節)とあるではないか。人類は主イエスによって「神の憐み」のしるしを身に帯びている。この意味でも、「カインの末裔」なのである。