2006・9・3

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「自立する人」

村上 伸

イザヤ書42,1-7; 使徒言行録3,1-10

 聖霊降臨の出来事があってから間もなくのことである。「ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時に神殿に上って」1節)行くと、「美わしの門」の傍に一人の男が運ばれて来るのに出会った。4章22節によれば、この人は「40歳を過ぎていた」というから、普通なら働き盛りである。だが、「生まれながら足の不自由な」人であったので、人に頼んで毎日門のそばに置いてもらっていた。「神殿の境内に入る人に施しを乞うため」2節)である。「午後3時の祈りの時」というのは、敬虔なユダヤ教徒たちが大勢この門を通って境内に入って行く時間帯である。しかも、マタイ福音書6章にあるように彼らにとって「施し」と「祈り」と「断食」は信徒の大切な義務とされていたから、その頃そこに座ってさえいれば、かなりの「施し」が期待できたわけだ。

 若い頃の私は、この人物についてやや偏って解釈していたように思う。つまり、この人は足が不自由だったので普通の仕事は出来ず、生きるためには「物乞い」をする位しか道はなかった、と考えたのだ。私はこの気の毒な人物の不幸を大いに強調した。

 だが、「足が不自由だから物乞いするしかない」と考えるのは短絡的だ。人には思いのほか豊かな可能性が与えられていて、体の一部に障碍があっても、他の部分がそれを補う。足が動かなくても、手を働かせて細工物をしたり裁縫をしたりすることは出来る。この点は、今も昔も変わりはないであろう。私たちの周りには障碍があっても驚くべき能力を発揮し、自立的な生き方をしている人々が何人もおられる。星野富広さんは事故で全身が麻痺したが、恐らく血のにじむような修練の結果だろうとは思うが、今では口で絵筆を咥えて素晴らしい絵を描く。このようにして生きている人は、決して少なくないのである。私も「口と足で描く芸術家協会」という組織から時々絵葉書などを買っているが、この協会のメンバーは全世界にわたっている。

 ペトロたちが神殿で出会ったこの人は、物乞いを習慣にしていた。それは恐らく、「他者の善意に依存する」というやり方で楽にお金を手にすることを覚えたからではないか。「物乞いは三日やったら止められない」という。彼も、この怠惰な日常がつい癖になってしまったのだろう。

 もちろん、他者の善意を受けることは何も恥ずかしいことではない。他者を助けることができるならばそれは感謝すべきことだが、時には他者の援助を遠慮なく受けてもいいのだ。私たちはよく、「お互い様だ」と言うではないか。この言葉の厳密な意味は、「私たちは人様を助けることもあるが、人様に助けられることもある。人生はこの二つの要素で成り立っている」ということである。

 欧米の先進国は、アジアやアフリカの貧しい国々をよく助ける。一般市民も、教会や赤十字などを通じて盛んに寄付をする。最近では日本もその仲間入りして、国が巨額のODA援助を毎年支出しているばかりではなく、災害がある度に多くの人が善意の募金に応じる。それ自体は良いことである。だが、そこには危険もある。つまり、自分たちの役割はもっぱら可哀そうな他者を助けることにあると考え、自分たちは「与える側」、可哀そうな彼らは「受ける側」、という考えが体の芯に染み付いて、いつの間にか「傲慢」になっているという危険である。 こんな小話がある。そういう人々がスイスの山にスキーに出かけ、不運にも雪崩に巻き込まれた。携帯電話などというものが流行る前の時代のことである。やっとのことで赤十字のヘリコプターがこれらの遭難者を見つけ、救助するためにロープを下ろそうとした。すると、遭難した人々が大声で叫んだというのである。「おーい、今、来たって、寄付金の持ち合わせはないぞ」。

 私たちは助けたり、逆に助けられたりして生きている。それが人間の生活というものだ。だから、助ける時は喜んで惜しみなく助け、助けられる時は卑屈にならずに堂々と援助を受ければ良い。自分をどちらかの側に固定して考える必要はない。


 ここで、もう一度今日の説教テキストに帰ろう。ペトロとヨハネは、この男を「じっと見た」(4節)。もっぱら他者の善意に依存するだけ、自分の人生をそこに固定して考えるようになってしまったこの男を、使徒たちはじっと見た。問いかけるようにしてじっと見たのである。あなたはそれでいいのですか? あなたには、それ以外の生き方は出来ないと思っているのですか?

 そして、「わたしたちを見なさい」と言った。その男は、相変わらず他者依存的に、「何かもらえると思って二人を見つめて」5節)いた。この時ペトロが発した言葉は、私たちを驚かせる。「わたしには金や銀はないが、持っているものを上げよう」(6節)。これがついこの間、イエスを三度も裏切ってしまったことを悔やんで男泣きに泣いたあのペトロと同一人物であろうか? とてもそうは思えないほど自信に溢れている。 だが、彼はあの挫折の後、イエスが彼のうちに甦ったことを経験したのだ。「キリストわれによみがえれば よみがえりにあたいするもの すべていのちをふきかえしゆくなり」(八木重吉)。私は今、あのひどい挫折からも立ち直って、生きています。イエスが私の中に生きていて下さるからです。その私を見なさい。そして、あなたも、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)。

 この時、その男は、他者依存的な生き方を止めた。「足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美した」8節)。文字通り自立したのだ。 復活の主イエスは、私たちを真に自立させて下さる方にほかならない。

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