聖霊降臨という出来事の後、信徒たちの群れは急速に成長し、それに伴って種々の具体的な責任が生じた。そこで、初代教会は「霊と知恵に満ちた評判の良い人」(使徒言行録6章3節)を7人選んでそれに対処させた。今日の所に出て来るフィリポはその内の1人である。7人の筆頭メンバーであったステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムでは迫害が起こって信徒たちは各地に難を避けたが、フィリポは一旦サマリヤへ行ったらしい。その後で、26節以下に記されている出来事が起こったのである。
最初に、「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である」(26節)とある。この「ガザ」という地名に注目したい。
ガザは、エルサレムから西南西、直線距離で約60km のところにある地中海岸の町である。エジプトに通じる交通の要衝で、古くからペリシテ人が住みついていた。イスラエル民族がモーセの後継者ヨシュアに導かれてカナン地方に侵入した際、一時、この地方を占領したが、その後またペリシテ人に奪い返された。それ以来、何世紀にもわたって「取られたら取り返す」という争いが繰り返されてきた場所である。
有名な「サムソンとデリラ」の物語の舞台になったのもガザであった。サムソンは恋人デリラの情にほだされて、並外れた力の秘密が髪の毛にあるということを彼女に打ち明けてしまう。デリラは裏切り、サムソンが眠っている間に毛を剃る。流石の豪傑も力を失ってあえなく捕虜となる。「ペリシテ人は彼を捕らえ、目をえぐり出してガザに連れて下り、青銅の足枷をはめ、牢屋で粉をひかせた」(士師記16章21節)。だが、その間に彼の髪の毛はまた伸び始めていた。それを知らないペリシテ人は、大きな石造りの建物の柱の間に彼を立たせ、満座の中で辱めて笑いものにする。サムソンは心に復讐を誓い、建物を支えている真ん中の二本の柱に両腕をあてがい、一気に押して建物を崩壊させる。このとき、ペリシテ人の指導者たちを始め建物の内外を埋め尽くした3000人もの男女が死んだ。いわば、「自爆テロ」のはしりである。士師記は、「彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者よりも多かった」(16章30節)と、誇らかに報告している。
このように、ガザは「やられたらやり返す」という報復の歴史にまみれた町であった。その中で、紀元前96年に旧市街はほぼ完全に破壊される。さっき引用した26節の最後に、「そこは寂しい道である」とあるのはその意味だ。『口語訳聖書』では、「このガザは、今は荒れ果てている」となっていた。この言葉は、今日の「パレスチナ自治区ガザ」の現状を私たちに思い起こさせる。
先日、私は「ガーダ――パレスチナの詩」という映画を見た。正にこの「ガザ自治区」に生きるパレスチナ住民の暮らしを、日本人の女性監督が何年もかけて撮影したユニークな作品だ。イスラエル軍の横暴、日常的に鳴り響く銃声、踏み荒らされた農地、見る影もなく破壊された家々、石ころで戦車に立ち向かう若者たちの抵抗、銃弾に倒れた10代の息子の臨終、家族の涙と泣き声、などが生き生きと描かれている。「このガザは、今は荒れ果てている」!
だが、そこにも逞しく生きる人々の生活がある。この映画の優れた点は、このことを描き出したところにある。苦しみや悲しみは尽きることがないが、それでも彼らは歌い、踊り、笑う。命の営みを絶やさない。私はそのことに胸を打たれた。
主の天使はフィリポに「ガザへ下る道に行け」と指示した。もちろん、これは今日のガザと直接の関係はない。しかし、この天使の命令は、キリスト者の生き方を暗示してはいないだろうか。ガザへ下る道に行け。絶えることのない争いによって荒れ果てているこの世界。しかし、そこでも人々が救いを求めて生きている。そこへ行け。
フィリポはそこへ行こうとする。その途中、「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官」(27節)と出会う。この宦官はエルサレムに礼拝に来た帰りだった。申命記23章によれば、去勢された男子は主の会衆に加わることを許されなかったから、彼が他のユダヤ人と同じように礼拝に参加できたとは思えない。だが、彼は、帰りの馬車の中で預言者イザヤの書を朗読していた。聖書の信仰に並々ならぬ関心を寄せていたことが分かる。そして、彼が読んでいたのはイザヤ書の53章だった。使徒言行録の引用は『70人訳』によっているので、言葉遣いがやや違う。元の形はこうである。
「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり命ある者の地から断たれたことを」(イザヤ書53章7-8節)。
一人で読んでいてもよく分からないから「どうぞ教えて下さい」と宦官は言った。そこで、フィリポは語り始め、「聖書のこの箇所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせた」(35節)。イザヤ書53章に証しされた「主の僕」は、他者の苦しみを自らに引き受けるという形で際限のない報復の連鎖を断ち切った存在である。この「主の僕」をよく見れば、そこから出た線がイエスに、つまり「悪に悪を返さず」(ローマ12章17節)、「善をもって悪に勝った」(同21節)イエスつながっていることが分かる。そして、ここにしか祝福への道はないのである。フィリポがガザへ行く道の上で証ししたのは、このことではなかったか。