2006・6・25

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「時間と自由」

廣石 望

イザヤ書25,1-10; ルカ福音書 14,15-24

I

私たちは皆、時間の中で生きています。諺に「時は金なり」といいます。時間のあるうちに今なすべきことをなせ、という意味なのでしょう。「あぁ、もう少しだけ時間があれば」「もうちょっと早く始めておけばよかった」と思うことはしょっちゅうです。しかし、本当に今なすべきことが何であるかを知ることは、そんなに簡単なことではありません。なすべきことはあまりに沢山あります。

「時は金なり」という諺は、じつは逆なのではないかと思うこともあります。つまり「金は時なり」。お金で時間を買うことができるという理解です。実際、レジャー産業の発達した私たちの社会では、休暇やリゾートに始まり、留学やコンサート、はてはエステに至るまで、お金があれば、いろいろな素敵な時間が手に入るように見えます。でも、そのためには、今は我慢してお金を貯めなければなりません。明日の素敵な時間を手に入れるために、今日を生きる――なんだか悲しくなってきます。私たちは、いつになったら、本当に今を生きるための時間を手に入れることができるのでしょうか。

私たちの中には、すでに現役を引退し、いわゆる「悠々自適」な生活を送っている方もおられます。では、これで無限の時間が手に入り、何でもできるようになったかと言えば、おそらくそうではありません。実際にはいろいろとしなければならないことがあり、思っていたほど時間と体力に余裕があるわけでもない、というのが実情でしょう。私たちの平均寿命はどんどん伸びているのに、与えられた時間はますます足りなくなってゆくように感じられます。いったい私たちにとって、与えられた限りある時間とは何なのでしょうか。

II

古代イスラエルには、この世の終わりに、神が義人たちのためにエルサレムの山上で大宴会を催してくれる。そのとき義人たちは喜び楽しみ、我を忘れてすばらしい時間を過ごすことができる、という期待がありました(イザヤ書25,6-10)。これは一種のユートピア思想です。古代のイスラエル人、とりわけ一般庶民の日常生活は、現代の私たちから見れば非常につましいものであり、その中心にあったのは労働です。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に帰るときまで」(創世記3,19)。そこには明日の暮らしに対する心配事もあったに違いありません。

宴(うたげ)は、そのような労苦や不安から解放された、自由で満たされた時間としてイメージされました。私たちの文化にいうところの、「ケ」に対する「ハレ」の時間に似ているかも知れません。

III

イエスの「大宴会」のたとえも、この思想伝統を受け継いでいます。皆さんは「神の国」とは何であるとお考えでしょうか。人でなく神だけが支配する空間、正義と公正が行なわれる場所、理想の社会――いろいろなイメージがあると思います。イエスは、「神の国」を宴のイメージで捉えました。だから彼は、ガリラヤの村々の片隅で「罪人」と呼ばれた人々とともに食事しながら、こう宣言したのでした、「神の国は近づいた」(マルコによる福音書 1,15)。

さて、このイエスのたとえは、先ほどお読みしたルカによる福音書だけでなく、マタイによる福音書(22,2-14)、そして新約正典には含まれないトマスによる福音書(語録64)にも伝えられています。三つのヴァージョンはそれぞれに特徴があります。それでも読み比べると、それが三つの別々の話ではなく、ひとつの同じ話の三つのヴァリエーションであることが分かります。そこから遡って、三つのヴァリエーションに共通の基礎を提供したベーシック・ストーリーは、例えば次のようなものだったと思います。

神の国は、つぎの話のようである。

ある人が大きな宴会を催した。そして晩餐の時刻に、彼は僕を遣わし、招待客たちに言わせた、「お越し下さい。もうすっかり準備が整いました」。

すると皆が一斉に言い訳を並べ始めた。
最初の者が彼に言った、「私は土地を買いました。どうしてもそれを見に行かねばなりません。申し訳ありませんが失礼させていただきます」。
つぎの者が言った、「私は二頭ずつ五組の牛を買いました。これからその品定めに行くところです。申し訳ありませんが失礼させていただきます」。
第三の者が言った、「私は妻を一人娶ったばかりです。それで伺うことができません」。

僕は帰り、そのことを主人に報告した。主人は怒って、僕に言った、「急いで通りに出て行きなさい。そして出会った人を連れてきなさい」。僕は命じられた通りにした。そして家はいっぱいになった。客で大入り満員である。

この話は、大宴会という一大イベントが企画されるところから始まります。招待主は、礼儀をつくして客を招待し、知らせておいた時刻に使いをやります。ところが予想外のことが起こる。招待客たちは、全員がいっせいに断わり始めたのです。いわゆる「ドタキャン」です。しかもその理由がつまらない。商業活動、農耕活動、家の経営――つまり、日々のしがらみです。例えば皆さんが、子どもさんやお孫さんの結婚式に招待した客たちが全員、しかも当日になって断ったとしたら、どう思われるでしょうか。この知らせを受けた主人が「怒った」というのは、この人が、私たちと同様に、社会における体面を重んじる人間であることを示しています。しかし、この予想外の展開に対して、主人は予想外の対抗策に打って出ます。つまり「誰でもいいから連れて来い」という代案を提案するのです。そして、それは実行に移され、代理客たちによる宴は大成功に終わりました。

IV

イエスのたとえは、古代イスラエルに伝わる〈終末の大宴会〉のシンボルを用いています。しかもその際には、「義人の祝福」が「罪人の呪い」とペアになることが多かったのです。義人が宴の中にいる一方で、罪人は外の暗闇に追い出されるというイメージです。招待主は、強権を発動する君主的な存在としての神をイメージさせるものでした。ところが、イエスの物語では、主人が客たちからボイコットされています。招待主でなく、客の方が人を選んでいるのです。こうして内と外は逆転する。これはコメディーの演出です。イエスの話を聞いた人々は、げらげら笑ったのではないでしょうか。

さらに招待客たちは、最上の時間への招待を、あろうことか「日々のしがらみ」を理由に断っています。たとえの世界では、登場人物たちの発言は、特別なシグナルがない場合は、文字通りに受け止めるべきです。つまり拒絶の理由は、招待主が怪しげな人物であることにはありません。こうして、普段ならばそれなりに説得力のある「日々のしがらみ」という理由づけが、まったく場違いな文脈に現われます。世間的な常識は、それを超える場面の中に置かれることで、相対化されます。

最後に、招待主が挙行した怪しげな「替え玉宴会」は、とても楽しそうです。なぜでしょうか。それは、この宴会に参加した人々が、資格を問わない自由な招きに、自由に応じた自由人たちの宴であるからです。

イエスのたとえに特徴的なのは、自分たちの社会の基本的な価値観を笑いとばす力、「日々のしがらみ」を越える場面を生きいきと捉える想像力、そして代理客による極上の宴会というイメージを通して席順とか社会的地位といった常識的な秩序を無効化する力です。この力が、私たちを神に向けて開くのです。

V

イエスと同時代のヘレニズム・ローマのストア哲学においても、「自由」はとても重要な概念でした。「自由」とは、自分の裁量権の範囲内にあることに自己を限定すること、つまり思い通りにならないことはすっぱり諦めて、自分との距離をとることで不動心を獲得することにありました。これと比較すると、イエスの場合、自分の思い通りになることに対する拘りを笑い飛ばすことで、そこから解放されてゆくプロセスに私たちを招いている、と言ってよいと思います。

ルカ福音書のイエスは、この点を捉えて、非常にはっきりしたアクセントをつけます。たとえの主人は、最初の代理客として、「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」(21節)と命じています。この詳細な指示は、たとえを語る直前に宴会の席上で、イエスが彼を招いてくれた人々に言った言葉、「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。・・・宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」(12-13節)、という言葉の反復なのです。君は社会的な弱者を招け、という意味です。

ひとつ翻訳に関して、注意していただきたい箇所があります。それは主人が、二度目の僕の派遣に際して言う、「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」(23節)という科白です。首に縄をかけてでも連れて来い、という意味にとれます。この「無理にでも人々を連れて来い」という主人の言葉は、かつて西欧の列強諸国が、アジア、アフリカ、そして中南米に植民地を作ったとき、現地の人々を強制的にキリスト教に改宗させる政策を正当化するために利用されたそうです。しかし、ギリシア語のテキストを見ると、「強いる」対象が客であるかどうかははっきりしません。もしかしたら「強いる」相手は客たちでなく、僕自身である可能性があります。「あなたは自らを強いて」つまり「あなたは頑張って」という意味にとれば、自由な招きというモチーフを生かすことができると思います。

今を生きるための時間、与えられた限りある時間を生きるためのヒントが、ここに隠されていると感じます。


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