「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる祝福で満たしてくださいました」(3節)とある。この箇所は、神をたたえる「賛歌」である。
そして、4節以下に神をたたえる理由が挙げられている。1.「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して・・・キリストにおいてお選びになりました」(4節)。2.「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(7節)。3.「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました」(8-9節)。4.「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって・・・約束されたものの相続者とされました」(11節)。そして、5.「あなたがたもまた・・・約束された聖霊で証印を押されたのです」(13節)ということである。
中には難解な聖句もある。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して・・・キリストにおいてお選びになりました」という所など、「どうもよく分からない」と感じる人も多いだろう。しかし、個々の文章の細かい解釈よりも、この箇所全体を一貫する大きな特徴に目を留めることが大切だ。ここには世界・人生に関する否定的な言葉は一つもなく、ただ「大いなる肯定」だけが語られている。この世界は、確かに「罪」と「死」に覆われているように見えるが、キリストを仰ぐとき、神が根本のところでは世界・人生を肯定しておられることが分かる、とパウロは言っているのである。
A.シュヴァイツアーのことを想起する。彼は、医療宣教師としてフランス領ガボンで働いていたとき第一次世界大戦が始まり、ドイツ人であるために捕虜収容所に入れられた。そこで彼の耳に入ってくるニュースは、どれも衝撃的なものであった。キリスト教国同士が未曾有の全面戦争を始め、しかも、そのために科学技術の粋を集めて開発された新兵器が使用されているというのである。高性能爆薬、機関銃、戦車、飛行機、潜水艦、毒ガス等々。戦闘は凄惨を極めた。この頃、O.シュペングラーは『西洋の没落』という本を書いたが、繊細な感受性を持つシュヴァイツアーも、「キリスト教的ヨーロッパはもうおしまいだ」と感じて、絶望したと言われる。
だが、嘆いてばかりいられない。没落した西洋文明を再建しなければならない。どうすればそれが可能だろうか?この問いへの答えを求めて、彼は捕虜収容所の中で世界史の研究に没頭した。その結果、「世界・人生を肯定する思想」がある所では文明は栄え、それがない所では衰退するという因果関係に気づく。だが、西欧のキリスト教が破綻してしまったように見える今、「世界・人生肯定の思想」をどこに見つけることができるというのか?
この問題を夜も昼も考えていた彼は、ある日、船で大河を遡る旅の途中、偶々大勢の河馬の群れを見る。その時、突然、「生命への畏敬」という考えが心の中に閃いた。これだ!これこそ、「世界・人生肯定の思想」ではないか。原始の大自然の中で直感的に「生命への畏敬」に目覚めた彼は、これによって文明を再建することができると確信し、そのために行動した。1953年、彼は「ノーベル平和賞」を受賞している。
現代の世界情況は、シュヴァイツアーの頃よりもずっと悪い。ハイテクは進歩して生活は便利になったかもしれない。だが、彼が強く反対していた「核」は世界中に拡散した。核保有国は、イランや北朝鮮の核開発は許せないと言うが、自分たちは既に大量の核爆弾を持っている。それだけではない。アメリカは広島と長崎でそれを実際に使ったし、フランスはその後南太平洋で水爆実験を強行した。放射能汚染の深刻な影響は今日に至るまで残っている。チェルノヴィリのような恐ろしい原発事故は何度か起こったし、再び起こらないという保証は何もないのである。
さらに言うならば、冷戦構造が終わった後、米国の軍事的一極支配と経済のグロバリゼーションが進み、それへの反発から「文明間の相克」が広がり、テロが拡散しつつある。その中で米国に追随する日本は、再び「戦争ができる国」になろうとしている。
地球環境に関して言えば、地球温暖化・砂漠化はとどまる気配もない。アフリカでは、エイズなどの蔓延によって人類の命が脅かされているし、先進国では出生率が減り続けている。その上、人類の将来そのものである子供たちが殺されるというおぞましい事件が後を絶たない。どこから見ても世界の将来は暗い。一体、私たちはどこに「世界・人生肯定の思想」を見出すことができるのか?
先日、電車の中で、孫のように見える赤ちゃんを抱いた年配の女性が隣に座った。その子は泣き出し、中々泣き止まない。何かの事情があったのか、その女性はミルク瓶も替えのおしめも持っておらず、困った様子であった。しかし、その子がどんなに大声で泣いても、彼女は周りに遠慮して叱るというようなことはせず、ただひたすら優しい言葉をかけながら背中をさすっていた。やがてその子は眠ったのだが、彼女の肯定的な受容の姿勢に、周りにいた私たちは一様に安らぎを感じたと思う。
私たちも、神の「大いなる肯定」を信じるとき、生きて行ける。今日の賛歌にあるように、私たちはキリストにおいて「選ばれた」。決して棄てられてはいない。私たちの罪は、キリストにおいて「赦された」。決して呪われてはいない。神の秘められた計画は、キリストにおいて「知らされた」。決して隠されてはいない。私たちは、キリストにおいて約束された祝福の「相続人」に指定されている。途方に暮れる必要はない。そして、「聖霊の証印」を押されている。私たちの内に働き給う神の力が、今既に将来を保証してくれているのである。
これが神の肯定であって、これを信じる時、私たちは生きて行けるのである。