2006・6・4

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「イエスが息を吹きかける」

村上 伸

ヨハネ福音書20,21-23

 今日の箇所の直前には、イエスが復活された日の弟子たちの精神状況が書いてある。思いがけぬことが起こって、彼らは混乱していたのだろう。夕方、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節)。いわば「引きこもり」だ。そこへイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」(19節21節)と二度繰り返して言われた。神の平和(シャローム)が既に来ている。恐れるな、という励ましである。そして、「彼らに息を吹きかけ」られた。これはどういうことだろうか?

 創世記の「創造物語」を思い出して頂きたい。「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2章7節)とある。人間は「土の塵」で形づくられ、神によって「命の息」を吹き入れられた存在だ、というのだ。無論、これは経験的な事実ではない。だからと言って出鱈目な作り話でもない。人間存在の不思議な本質についての深い洞察である。

 「土の塵」とは、「それ自体では命を持たないもの」を意味する。知識が進んだ現代、ことに日本のような湿潤な風土で生活する私たちは、「土」の中にも目に見えない細菌や微生物が無数に生息していて豊かな生命活動を営んでいるということを知っているが、古代の中近東では、「土の塵」は普通「命を持たないもの」を意味した。だから、神が「土の塵で人を形づくった」というのは、人間が弱い・壊れ易い被造物であるということの象徴的な表現だったのである。

 人間は弱く、壊れ易い。昔の人は、日常的な経験を通じてそのことを実感していたであろう。医学はまだ進歩しておらず、乳幼児の死亡率は今より遥かに高かったし、無事に成人できたとしても、戦争や自然災害であっけなく死ぬ。そのような状況の中では、人間が「土の塵」で造られたという考えは自然に受け入れられたに違いない。この人間観は現代でも通用する。20世紀最大の哲学者といわれたマルチン・ハイデガーが、人間は「死への存在」(Sein zum Tode)であると言ったのはその一例だ。

 しかし、創造物語にはもう一つの、さらに重要な側面がある。「土の塵」で造られた人間に、主なる神が「命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という所である。人が「生きる」のは決して自明なことではない。「命の息」が神によって吹き入れられるとき、初めて「生きる者となる」のである。使徒パウロが「わたしたちは、このような宝を土の器に納めている」(2コリント4章7節)と言ったのも、このことに他ならない。

 さて、この「命の息」は、新約聖書では「聖霊」と呼ばれる。ペンテコステの日に、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」(使徒言行録2章2節)とあるように、聖霊は「風」のようにやって来る。聖霊は「私たちの内に働く神」(K.バルト)であるが、それは「命の息」のように軽やかに、そして風のように自由に、あらゆる障壁を乗り越えて私たちの中に入って来る。また、思いがけず、突然、人間の思いを遥かに超えた天の高みから降りて来て、「土の塵」からできた弱い私たちを生かし、「生ける屍」のような状態の私たちを再び蘇らせる。だから、私たちは歌うのだ。「神の息よ、われに吹きて、新たなるものにつくりかえよ」(讃美歌348番)。

 一週間前、ジャワ島でまた大地震が起こった。インドネシア政府の公式発表によると、死者6,234人、負傷者33,000人、家を失った被災者は約65万人。地震国日本に住む私たちにとっては他人事ではない。心が痛む。

 だが、この悲劇の中で奇跡が起こった。被災地の人々が気を取り直して素手で瓦礫を取り除いていくと、一人の母親の亡骸が見つかった。しかも、彼女が右腕で作った隙間の中に、生まれて間もない男の赤ん坊が無傷で生きていたというのだ。思いもかけず生き残った孫を抱き上げた祖父は、まだ名前もつけてなかったその子に、「ジャンクン・プラボワオ」という名をつけた。「ジャンクン」とは「生きる」という意味であり、「プラボワオ」とは「神から授かった力」を意味するという(6月2日付朝日新聞「天声人語」)。ちょうど今日の説教の準備にかかっていた私は、このコラムを読んで心を打たれた。「神から授かった力によって生きる」という名前を与えられたこの赤ちゃん! これは正しく、一つの独自な「聖霊体験」ではなかったか。

 「天声人語」によると、似たようなケースは他にもあるという。1974年2月、ブラジルのサンパウロで25階建てのビルが炎上したとき、子どもを抱いた若い母親が15階から飛び降りた。母親は地面に激突して即死したが、胸に抱いた1歳半の幼児は奇跡的に助かった、というのだ!

 絶体絶命の状況下で子どもが助かったのは「奇跡」と言えるだろう。しかし、それ以上に奇跡的なのは、倒壊する煉瓦の下で咄嗟に赤ん坊が生きていけるような空間を確保した母親の「愛」である。あるいは、15階から飛び降りて地面に激突するまで何秒かかったか分らないが、その短い時間、子どもへの衝撃をできるだけ少なくするために姿勢を制御していたであろう母親の必死の「愛」だ。

 このような「愛」を人間に与えるのも、聖霊の働きなのだ。この「聖霊を受けなさい」と、復活の主イエスは弟子たちに向かって、そしてまた私たちに向かって言われたのである。


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